田渕竜也

よく考えたら「ファン」ってすごいっていう話

ファンという狂気教団。そしてウェルテル効果

「嫌だなぁ、怖いなぁ」稲川順二がよく言うセリフだが、幽霊であれば別に実態もないし、別に成仏させればなんとかなるし、そもそもそんな心霊スポットと呼ばれるところに行かなければいいだけだ。しかし「ファン」という集団はそうじゃない。生きている人間だし、動くし、意思を持っている。それに成仏もしないし、そして団結しやがる。
よくTwitterとかSNSのプロフィールに〇〇のファンとか、〇〇推しとか、書いている人を見かける。そこで一つ「ファン」っていう存在は一体なんぞや?というところを考えてみたい。先ず「普通の一般人に於ける好き」と「ファンの好き」とは意味が違う。ただの「この音楽が好き」とかアニメの「この動きが好き」はただの「一般人的好き」」である。これは生活に於ける「いただきます」とか「ごちそうさま」ぐらいのライトな感じでこれはよくあることだ。しかし「ファンの好き」は違う。先ず、好きなものに対して「信仰」という概念が生まれる。「信仰」とは、神とか絶対者とかに聖なる存在を信じ崇拝することで、「ファンに於ける好き」というのはファンにとって信仰対象のアーティストやアイドルなどの存在は「聖なるもの」なのである。そしてファンたちがその崇拝対象に恋に落ちるところからファンの狂気は始まるのである。
記憶にあるのはHIDEの葬儀だろう。「ウェルテル効果」という言葉がある。ゲーテが書いた「若きウェルテルの悩み』を出版当時、読んだ若者の自殺者が増加したという言葉なのだが、葬儀場へ詰めかける大量のファンたちに後追い自殺をするファンなどが発生した。まさに「ウェルテル効果」。その当時の映像をみると「狂気」としか思えない。しかし彼ら彼女らからしたら肉親、恋人以上の聖なるものなのである。怖いですねぇ。恐ろしいですねぇ。

アイドル、ヴィジュアル系バンドの共通するもの。それは「儀礼」

アイドルとかのライブって、「ヲタ芸」っていうものがあるじゃないですか?ヴィジュアル系のライブにも似たようなものがあるんですよ。頭ぶんぶん振り回す「ヘドバン」、手のひらをばたばたさせる「手バン」、バンドメンバーに向けて両手をパカッて広げる「咲き」、「モッシュ」、「手扇子」、「ハート飛ばし」など様々な振り付けがある。どんだけ種類あるだよって思うけど、これらファンたちによる振り付けは一つの集団をアーティスト側と意思を一つにする、言ってしまえばエヴァンゲリオンの人類補完計画みたいなものなのである。この補完計画みたいなものはファンと崇拝される側の気持ちを一つにする「儀礼」としての機能を成している。この振り付けをファンたちがどこまでライブ会場でできるかが崇拝する対象への依存度に比例しているのである。
だからヴィジュアル系のファンって過激になりやすいと思うんですよね。かつてDir en greyとPierrotの両者のファンがぶつかり合ったように、バンド同士の宗教戦争にまで発展する場合もある。怖いですねぇ。

音楽という言語:ファンたちの救い

音楽というものにはいろんな感情を揺さぶらせることが出来る。悲しくさせたり、興奮させたり、穏やかにさせたり、楽曲に強い共感を持たせたり、こんな感情を音楽を聞いてなった経験がある方は多いのではないだろうか?つらいときや悲しい時を音楽で立ち直るなんてこんなメンタルヘルスな話は珍しいことではない。そういった面から音楽には少なくとも気持ちを救う力はあると思うのです。
ここでいきなりだけどメジャーどころの星野源を取り上げてみようと思う。なぜ彼かというと今、日本音楽界で恐らく一番崇拝対象として盛り上がっている人物だからだ。以前まで独身芸能人として崇拝されてきたのは福山雅治だった。しかし彼は結婚してしまい、主に独身女性に崇拝されてきた彼はこの「結婚」という行為によって聖なるものに人間味が入ってきた。その瞬間、福山雅治は一気にただの中年のおじさんに変わってしまったのだった。だから現在の彼は人気が下がってしまった。話は逸れてしまったが今、丁度その福山雅治の椅子にいるのが星野源なのである。そういったことから星野源さんはある程度人間味には気をつけないといけない。
星野源の特徴には「踊り」というものがある。そうご存知、「恋ダンス」などだ。あのポップな曲に微妙に難しそうな振り付けが却って星野源ファン以外のただのファンたちにも信仰を増やして行った。また話が逸れてしまったが、彼の歌詞には精神世界が溢れている例えば『SUN』という曲、この曲に出てくる「Hey”J」とはマイケル・ジャクソンのことである。マイケル・ジャクソンを題材にしたこの曲は星野源が2013年くも膜下出血で倒れた自身と死んでしまったマイケル・ジャクソンとの死生感を混ぜ合わせたかなり精神世界な歌詞になっている。星野源にはくも膜下出血で死生を彷徨ったということで死と生を肯定的にポジティブに今ある幸福をというキーワードがよく登場する。ここが恐らくファンたちが信仰する星野源の音楽なのだろう。

平凡なルックスと「擬似恋愛」

ところで星野源のルックスってどう思いますか?めちゃくちゃかっこいいですか?ディスられる覚悟で言ってみますけど、ルックスレベルでいうと綺麗なずんの飯尾ですよね。別にブサイクじゃないけど、めちゃくちゃかっこいい訳でもない。本当に普通で平凡なんですよね。本当に町を歩くと二、三人は見かけるぐらいに。だけどこの「普通」っていうのがミソなのですよ。
星野源のファンって恐らく、芸能界のイケメン疲れの人たちが多いと思うんですよね。テレビをつければどこもかしこもジャニーズにEXILE軍団。こんな人らと街中で出会えるはずもないし、仮に居ても手に届きそうにもない。そこで星野源のような平凡なルックスなら手が届きそうっていうことだと思うんですよのですよ。これってAKB48以降の流れになんですよね。「会いに行けるアイドル」このコンセプトってめちゃくちゃルックスがいいと成立しないんですよね。ルックスが良すぎると「手に届く感」がないからAKB劇場のリピーターがつかない。
そこで学校のクラスでいう10位から5位くらいの人で構成することで「あっ、なんか手に届きそうじゃね」っていう錯覚に陥りやすい。それでいて恋愛禁止。これって星野源にも同じことが言えると思うんです。なんか「手に届きそう」っていう感じ。その辺でエンカウントしそうな感じ。そんでこれが一つファンたちの「擬似恋愛」という形になっているのですよ。怖いですねぇ。恐ろしいですねぇ。

ファンという存在の暗黒面

記憶に新しいSMAPの解散の時、TwitterなどのSNSではSMAPを解散させまいとファンたちが署名活動や新聞広告掲載やジャニーズ事務所への直談判などすごく行動的だった。これならまだマシだけどかつてとんねるずがやっていた野猿の解散のときはファンの自殺の騒ぎがあった。
これらファンというものは確かにアーティスト側の最大の味方ではあるけど、一つ踏み外せば福山雅治のように聖なるものからただの中年男性になる。そして信仰していたものが突然死んでしまえば一緒に心中をするという一歩間違えば人民寺院の集団自殺になりかねないもの。ファンというものは全てがとは言わないが、そういった「狂信者」である側面を持っているのである。

今日はここらへんで。それではさよなら、さよなら、さよなら。

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