なかむら ひろし

第37回もう一度まなぶ日本近代史~初期議会、言うこと聞かないのなら予算は通しません~

 大日本帝国憲法が公布され、いよいよ帝国議会が開かれることになるわけですが、その前に前回書ききれなかった軍制と教育制度を見ていくことにしましょう。

軍部って何よ?

 1878年(明治11年)、陸軍は参謀本部を設立します。少しややこしい話ですが、結構重要なので是非押さえておいてもらいたいところです。参謀本部というのは、軍の作戦や指揮など(軍令といいます)を担当する統帥部を軍の人事や予算など(軍政といいます)を担当する陸軍省から独立させた機関です。軍政と軍令の分離と呼ばれるのですが、どういうことかというと「戦い方を知らない連中が実際に戦っている人たちの作戦に口出しすんなよ」っていうことです。プロ野球に例えると、球団社長は監督を誰にするかとか選手の年俸などお金をどれくらい使うかは決定できますが、監督にどのようなオーダーを組めとかどのようなサインを出せとかまでは命令できないみたいな話です。これに伴って1882年(明治15年)に軍人勅諭が発布されています。軍は、天皇直属で政府や議会にあれこれ言われる筋合いはないが、逆に軍人には選挙権がないなど政府や議会にあれこれ言う権利もありませんよという決まりです。遅れて海軍の方も1893年(明治26年)に海軍軍令部が設立され、統帥部が独立し、天皇直属となりました。
 よく軍部が暴走して日本は大変なことになったなんて言われますが、軍部は陸軍省・海軍省・参謀本部・海軍軍令部と大きく分けても4つになりますし、それぞれが一枚岩というわけでもありません。果たして暴走したのは誰なのか・・・それは今後お話することになります。
 また、1888年(明治21年)に鎮台から師団へ改められ、対外戦争を睨んで軍の規模が拡大しました。さらに1889年(明治22年)に徴兵令の改正が行われ、兵役免除規定が廃止されました。いろいろと抜け道があって徴兵逃れをしていた人がたくさんいたという話をしましたが、ここで国民皆兵が確立しました。

なんとかまとまった教育制度

 フランス式の学制が取り入れられ、国民皆学を目指したという話は以前しましたが、画一的な教育だったため、国民生活の実情にそぐわないという理由で、1879年(明治12年)に学制が廃止され教育令が公布されました。これはアメリカ式の自由主義教育で、就学期間を16か月に短縮し、各地方に裁量を与えることで就学率を伸ばそうとしたのです。しかし、自由にやらせることで、却って教育の衰退につながるのではないかという懸念から翌年1880年(明治13年)に改正教育令を出し、教育に対する政府の権限を強化し、就学期間も3年に延長されました。ただ、それでも劇的な就学率向上には至りませんでした。
 こうした迷走を続ける教育制度を確立させたのが、初代文部大臣の森有礼でした。1886年(明治19年)、小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令(まとめて学校令と呼ばれます)が公布されました。小学校令では、小学校が「尋常小学校」と「高等小学校」に分けられ、尋常小学校4年に関しては、保護者に教育の義務があることが定められました。その後の改正で尋常小学校4年の義務教育化が確定され、授業料も無料になりました。さらに1907年(明治40年)には尋常小学校6年が義務教育となり、就学率は大幅に向上しました。
 明治の教育は当初、「勉強して立身出世」という啓蒙的なものでしたが、次第に「勉強して国のために働く」という国家主義的なものに変革していきました。その代表例が1890年(明治23年)に公布された「教育に関する勅語」(教育勅語)です。儒教的な道徳規範や愛国の理念が記載され、1903年(明治36年)に公布された国定教科書制度や「修身」の授業で国民国家の概念が国民に教え込まれました。また、この頃から教育は「読み・書き・そろばん」を始めとした仕事で直接的に役に立つ実学がメインでした。「良く生きる」ための哲学教育が盛んではないのは現在も同じです。

いきなりハチャメチャな帝国議会

 大日本帝国憲法が公布された際、内閣総理大臣だった黒田清隆は「議会が何を言おうが、そんなの関係ねぇ!」という所謂「超然主義演説」を行いました。このことから政府寄りの人物によって組閣された内閣は超然内閣などと呼ばれます。ただ、黒田は大隈重信の条約改正失敗によって総辞職したため、第1回総選挙の際には山県有朋内閣になっています。果たして、超然とした政府は、議会を無視してでも自分たちの思い通りの政治を行うことができたのでしょうか。
 憲法公布の翌年1890年(明治23年)7月、第1回総選挙が行われました。選挙の結果、民党(自由民権派など政府不支持政党)は300議席中171議席(立憲自由党130議席、立憲改進党41議席)を獲得し、吏党(政府支持政党)の129議席(大成会79議席、国民自由党5議席他)を上回り、過半数を占めました。ちなみに立憲帝政党は、政府が政党を否認したため、存在意義を失い、結党の翌年に解党してしまったため、この時にはもう存在していません。
 選挙後に開かれた第一議会で、山県は「主権線と利益線の防衛」を訴えます。主権線とは国境、利益線とは朝鮮半島を指し、国境だけでなく、朝鮮半島を押さえなければ国を守ることはできない、つまり「軍拡したいからその分の予算を通せ!」と訴えたのです。ちなみにこの理論は後に飛躍し、朝鮮を守るには満洲を押さえなければならない、満州を押さえるためには・・・となり、「日本は世界征服しようとしていたんや!」と言われる原因になったりします。一方、民党は「民力休養・政費節減」をスローガンにこれに反対しました。「政府の予算を削ったら、その分の税金を下げることができるやん!」と地租軽減を訴えていたのです。前回やったように予算は、衆議院に承認されなければ成立しません。しかも、予算不成立の場合、前年度の予算を適用するという規定も初回では通用しません。このままではいきなり憲法が停止してしまい、欧米列強にバカにされてしまいます。そこで山県は立憲自由党土佐派(竹内綱・林有造・植木枝盛ら)を買収し、賛成に回らせて、無理矢理予算を通過させたのです。(ちなみに竹内綱は吉田茂の父、麻生太郎の曽祖父だったります)これにキレた中江兆民が議員辞職するなど、いきなり議会はハチャメチャです。山県の方もこれ以上の議会運営は難しいと総辞職してしまいました。

妨害してもまた勝つ民党

 1891年(明治24年)、松方正義が内閣総理大臣となり、第二議会が開かれました。ここでも政府は海軍拡張などを主張しますが、やっぱり民党は反対します。そこで海軍大臣だった樺山資紀が「今日の日本があるのは俺たち薩長のおかげだろが!予算を通せ!」というような所謂「蛮勇演説」を行ったのですが、民党はこれに猛反発し、議会は荒れに荒れてしまいます。そして、松方内閣は解散総選挙に追い込まれます。
 第2回総選挙では、内務大臣品川弥二郎が選挙大干渉を行い、民党の選挙活動を妨害しました。ただ、民党側もこれに応戦し、地方官吏がやりすぎてしまったこともあり、死者25名・負傷者388名を出す大惨事になってしまいます。そして、品川内相は引責辞任に追い込まれます。しかもここまでやった政府でしたが、選挙結果はやっぱり民党が過半数を占め、その後の第三議会では、内閣に対する選挙干渉の責任が追求され、身内からも見放された松方内閣は総辞職することになります。

伊藤博文、再び降臨

 松方内閣倒閣後、第2次伊藤博文内閣が発足します。伊藤は、閣僚に明治維新に貢献した元勲を揃え、超豪華メンバーでこの難局を乗り越えようとします。そのことから第2次伊藤内閣は、「元勲内閣」などと呼ばれます。政府はここでも海軍拡張を訴えますが、民党はやっぱり反対します。「何?この無限ループ?」という感じですが、和衷共同の詔(建艦詔勅)によって、この、無限ループに終止符を打ちます。天皇が「宮中費も高級官吏の給料も削減するから議会は政府と仲良くしなさい」と仰ったのです。民党も「別のところで予算削ってくれると陛下も仰ってることだし、まぁいいか」と言って、なんとか予算は通過しました。
 この後の第五議会・第六議会の争点は、条約改正などの外交問題へと移っていくのですが、それは次回以降でお送りしたいと思います。

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所謂「蛮勇演説」を行った樺山資紀。
この後で起こる日清戦争では、商船を改造した船で清国艦隊と戦って、危うく死にかけたりしています。
その際、拳銃で清国艦隊やその魚雷をバンバン撃ったり意味のわからないことをする面白い熱い人です。
日清戦争後は、初代台湾総督になっています。
近年では白洲次郎の奥さんの祖父として有名。

 こんな感じで議会が荒れまくっている間、朝鮮半島はきな臭いことになっていました。いよいよ清国とのバトルが勃発します。

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