第3回もう一度まなぶ日本近代史~アヘン戦争後の日本~

文:なかむら ひろし

 アヘン戦争の情報は、オランダや清の船によって伝えられ、日本に強い衝撃を与えました。前回登場した林則徐のブレーンであった魏源の『海国図志』という世界情勢を記した書は、多くの日本の知識人に読まれ、その後の日本に大きな影響を及ぼしていくことになるのです。

大失敗1843

 アヘン戦争勃発時の日本は大御所時代と呼ばれ、11代将軍・徳川家斉が隠居した後も実権を握り、やりたい放題やっていました。いくら改革を試みようとも家斉によって握りつぶされてしまうのです。
 ところが、1841年に家斉が亡くなると「待ってました!」とばかりに台頭してきたのが、学校で覚えさせられる江戸時代の三大改革の最後を飾る天保の改革を行った水野忠邦です。忠邦は、真っ先に改革に反対していた家斉派を粛清すると、時代劇『遠山の金さん』で有名な遠山景元や時代劇で悪代官として有名な鳥居耀蔵などを登用し、天保の改革に着手していくのです。

 それでは、天保の改革の一部を見てみましょう。

薪水給与令
 それまでは異国船打払令という長崎以外に近づいた外国の船は大砲を撃って追い払ってしまえという強攻策を行っていました。(実際にはほとんど機能していませんでしたが)しかし、アヘン戦争の情報から異国船打払令を廃し、薪水=燃料と水、食料を提供する代わりにさっさと帰ってもらおうという軟化策へと切り替えます。

人返しの令
 幕府の収入は年貢です。米です。当時の多くの農民は都市部に出稼ぎに来ていたのですが、「お前らが農村で働かないから収入が減るんだ」と、仕事がないから出稼ぎに来ているのに無理やり農村に返してしまいました。

株仲間の解散
 「既得権益の打破だ」と、今でいう農協のような団体を解散させ、経済の自由化を図りました。しかし、流通を取り仕切っていた株仲間を解散させたことで物流が混乱してしまいます。

 ご存知のとおり、まあ間違いだらけで失敗の連続です。トドメとなったのは上知令というものです。江戸や大坂といった重要な地を幕府の直轄地にして、幕府の権力強化を図ろうとするのですが、その地を治めていた大名や旗本だけでなく、住民にまで大反対され忠邦は失脚します。
 実はこの後、一度復権するのですが、やったのは自分を失脚させた者への仕返しだけで、あとはまったくやる気ゼロですぐに失脚しています。

鎖国の固持

 天保の改革が頓挫した後の1844年、オランダ国王のウィレム2世が幕府に国書を送ります。「長年の間付き合ってきた友人として忠告しておく、列強によって清国もヤバいことになってるし早く開国した方がいいよ」というような内容です。しかし、幕府はこれを拒絶します。
 さらに1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し、開国と通商を求めますが「まず長崎という玄関から入ってこい」という話で追い返しています。ちなみにこの時、ビッドルは通訳の手違いで護衛の武士に殴られたり、帆船で来航したため風がなく浦賀から出られなくなり、船を引っ張ってもらったという情けないエピソードが残っています。

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殴られるジェームズ・ビッドル司令長官。大国まではまだ遠いアメリカ。

 次回は開国といえばあの人でしょうという、某フラッシュで有名な(若い人は知らないかもしれませんが)あの人が登場します。

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