弱者への寛容さが欠如した社会
神奈川県相模原市の障害者施設で起こった事件は記憶に新しい。ものの1時間弱の間に死者19人、重軽傷者26人を出したこの事件は、戦後最大の殺傷事件と言っても過言ではないだろう。死傷者合わせて45人という規模の大きさはもちろん、この事件の犯人である植松聖の「社会にとって不利益な存在はいなくなった方がいい」というような旨の発言に私は戦慄を覚えた。
植松自身は危険ドラッグをやっていたり、普段から粗暴な行いが目立つDQNなのだが、こういうことって所謂「普通の人」でも結構口にしたりするんだよね。「介護させられる方はたまらない」とか「障害者なんかに税金使うなんて無駄」とか。ネット上でも「犯行は許せることではないが、その考えには賛同する」という意見がちらほら見られた。検索エンジンで「植松聖」と入力し、スペースキーを押すと「正しい」と出るくらいだ。しかし、こんなものは今更驚くほどのことでもない。ものすごく嫌な話だが。
皆さんもご存知の通り、現在の日本は生産性の低い人にとことん厳しい。この事件の場合は、社会にとって不利益な存在=障害者なんだけど、これは「高齢者」「無職」「ホームレス」「ニート」と様々な人間に置き換えることが可能だ。こういった人たちは、口では「可哀想だ」などと言われることはあっても、常に侮蔑の対象とされる。皆がみんな、侮蔑していると決め付けるわけではないが、昨今の「貧困は自己責任」というような自己責任論がまかり通るような社会では、こう言わざるを得ない。効率化、合理化を追求していった結果がこれ。あぶれた奴は「役立たず」と言われて放逐される。だから、ネット上で植松の発言に同調するような意見が見られてもまったく不思議なことではないんだよね。というか、こういう自己責任論を振りかざすような連中って植松と同じような思考をしているんじゃないかと思える。本質的には植松となんら変わらない。直接手を下すか、間接的に殺すかの違いだけ。
こういう生産性の低い人間を排斥する自己責任論者は、「明日は我が身」という想像力が欠如している。健常者であっても事故に遭って障害者になることだってあり得るわけだし、勤めている会社も現在は順調でもいつ倒産して失職するかもわからない。震災によってすべてを失うことだってあり得る。自らが陥らなければ、わからないのだろうか。いや、今まさに植松のような人間に殺害されようとしたときまで気付くことはないかもしれない。それとも、いつ自分が落ちぶれるんじゃないのかと不安で仕方なく、その行き場のない焦燥感をぶつけているだけかもしれない。そうであれば、本当に植松となんら変わらない思考回路であろう。這い上がろうとしている人間を足蹴にするような自己責任論を吹聴する社会的影響力の強い人間の業の深さよ。
長引く不況によって、人々は経済的にだけでなく、精神的にも貧しくなった。弱者への寛容さは失われ、自己責任論という新興宗教にすがりつき、自らの首を絞める。この自己責任という専制は、第二の植松を生み出すんじゃないかと思う。また、カウンターとして血盟団のようなテロ組織ができて、自己責任論者にその矛先が向けられるかもしれない。いずれにしても、日本が弱者も平穏に暮らせる安定した幸福な国になるには、超えなければならない山が多すぎる。そして、その道ひとつひとつが険しい獣道であるような気がしてならない。
※この記事は過去にフリーペーパー用に書いたものです。お蔵入りにするのもあれなので、古いものですが、こちらに掲載することにしました。