第64回もう一度まなぶ日本近代史~二・二六事件、陸軍派閥抗争の末に・・・~
政友会を味方に取り込めなかった岡田啓介内閣は、少数与党となり、その前途は多難でした。しかし、天皇機関説問題などで攻撃にさらされながらも、譲歩に譲歩を重ねながら倒れそうで倒れませんでした。そして、ついには解散総選挙に打って出るのですが、この選挙で与党が大勝し、岡田内閣は磐石となるはずでした。なるはずでしたが、わずか6日後に二・二六事件が起こってしまうのです。
今回は二・二六事件を見ていくわけですが、まずは陸軍の軍閥の流れを見ていくことにします。その方が事件もわかりやすいと思います。
軍閥の変遷
明治政府が誕生してから陸軍は、しばらく山県有朋ら長州閥が牛耳っていました。ところが、日露戦後、大正デモクラシーの風潮が高まり、政党内閣が強くなっていくと、陸軍も政党に媚を売らないと予算が取れず、政党に迎合していくことになります。田中義一が政友会と結び付いたのがその始まりです。この頃には、長州出身者だけではなく、陸軍大学校を卒業したエリートが派閥に取り込まれるようになっていました。そして、田中の下で出世していったのが岡山出身の宇垣一成でした。宇垣は民政党(当時は立憲同志会)と結び付き、田中失脚後は独自の派閥を形成して、陸軍の重鎮となります。しかし、政党と協調して軍縮を進めるなど、陸軍内から不満分子を大量に生み出してしまうのです。
そこで宇垣閥の打破を目指して誕生したのが「一夕会」です。永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次ら中堅エリート層が中心となって結成された会合で、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の3将軍を盛り立て、派閥の解消や軍制改革などを目指しました。ところが、後に永田と小畑が対立したことで、一夕会は分裂してしまいます。派閥の打破を目指して結成された一夕会は、奇しくも皇道派と統制派という新たな派閥抗争を生み出してしまうのです。
国家社会主義の影響
欧州大戦後、日本は慢性的な不況に苛まれることになります。特に農村の困窮は甚だしく、多くの餓死者を出したのです。そういう状況にも関わらず、政党政治は腐敗し、財閥との癒着によって、汚職事件を連発します。当時の日本は半分以上が農民です。そんな農民の子供が徴兵令によって、たくさん陸軍にやってくるわけです。(ちなみに海軍は志願兵だったりします)青年将校たちは、政党内閣に何も期待などせず、清廉な軍人による政権を望むことになります。
そんな青年将校たちに思想的な影響を与えたのが北一輝という人物です。北の思想は、本質的には社会主義です。しかし、「皇室だけでなく、国家すらいらない」と訴える旧来の社会主義とは異なり、「国家や皇室を維持」したまま、「社会主義的な政策」を進めていくことが理想と考えていました。そのため、危険思想とされた社会主義とは異なり、北の「国家社会主義」は広く受け入れられるようになります。そして、北は著作の中でクーデターを起こして軍事政権を樹立し、いわば日本版社会主義国家に改造してしまおうと「国家改造」を煽っていきます。実際には、選挙を通して合法的に改革を進めるべきとか、対外問題が深刻化する中ではやめた方がいいとか、意外と急進的とは言えなかったりするんですが。
北が大川周明や西田税といった軍とコネクションのある人物と親交を深めたことによって、国家社会主義は青年将校たちに浸透していきます。そして、青年将校たちは、天皇を抱えて、軍事力を背景に新たな政府を樹立する「昭和維新」を目指していくことになります。
宴会大好き桜会
陸軍では、一夕会以外にも橋本欽五郎らを中心とした「桜会」という会合も誕生しました。一夕会は派閥の解消を目指したこともあり、自らの出世に関係がある中堅エリート層に支持されたのに対して、桜会はより急進的で「クーデターによる国家改造」を訴えたため、最初から出世が見込めない所謂ノンキャリの青年将校たちから支持されました。そして、桜会は三月事件、十月事件というクーデター未遂事件を起こすのです。
桜会は、クーデターを起こして、濱口雄幸内閣を総辞職させ、当時陸相だった宇垣を首相とする軍事内閣樹立を計画しました。しかし、その計画があまりに杜撰だったことや当の宇垣が民政党の総裁になり、合法的に首相になれる可能性が出てきたことによって、陸軍内部から反対に遭い、クーデーターは未遂に終わります。これが三月事件です。
しかし、三月事件に軍の上層部が関与していたことから首謀者が処分されなかったため、調子に乗った桜会は満洲事変に乗じて新たなクーデターを画策するのです。しかも、今度は元老や閣僚を皆殺しにするというさらに過激な計画になり、一夕会もプッシュする荒木貞夫を首相にする予定でした。また、三月事件は陸軍中央からの反対に遭って失敗したので、秘密裏に進められました。ところが、この計画も漏れて未遂に終わります。これが十月事件です。
実は、大川周明ら民間右翼も桜会を支援しており、資金が潤沢になってくると、作戦会議と称して芸者遊びを繰り返します。しかも、芸者に「クーデターが成功したら俺が大臣や」などとクーデターが計画されていることを口外するし、その芸者が東北の農村から身売りされた娘だったりするわけです。正義感の強い青年将校は、すっかり桜会を見限るようになり、「宴会派」とディスるようになります。この計画が漏れたのは、身内による密告ではないかと言われています。
二度のクーデター未遂事件を起こした桜会は解散させられることになるのですが、その多くが後に統制派として台頭し、青年将校は皇道派へと流れていきます。
一夕会の分裂
満洲事変が勃発すると、宇垣閥は若槻礼次郎内閣と協調して、事変の不拡大を訴えます。しかし、民政党が内部分裂して若槻内閣が倒れると、一夕会は政権が回ってきた政友会に圧力をかけて、荒木貞夫を陸相に就任させます。そして、荒木陸相の下で陸軍から宇垣閥を一掃すると、一夕会が陸軍を掌握することになるのです。これで陸軍にまとまりが生まれたかというと、現実はそんなに甘くはありませんでした。
一夕会は対外政策を巡って、内部分裂してしまいます。小畑敏四郎は「陸軍の仮想敵国は昔からロシアだろ!とにかくソ連に備えるべきだ!」と主張したのに対して、永田鉄山は「今ソ連とやり合ったら、排日が続く中国は必ずソ連につく!まずは中国を叩いて、中国を日本側につけるべきだ!」という対支一撃論を唱えて、大論戦が始まります。小畑と永田は喧嘩両成敗という形で左遷され、表面的には解決するのですが、これをきっかけに陸軍は荒木・真崎・小畑を中心とする皇道派と永田・林らを中心とする統制派に分裂していったのです。
皇道派と統制派の派閥抗争
当初、陸相の荒木を擁する皇道派が優勢でしたが、あっという間にひっくり返ってしまいます。荒木がびっくりするほど無能だったのです。斉藤実内閣の時、首相・外相・蔵相・陸相・海相が重要国策について協議する五相会議というものが始まるのですが、高橋是清蔵相や広田弘毅外相に簡単に言い負かされて、予算を下げられまくりでした。荒木は、元々軍令畑の人で側近も含めて軍政に関しては非常に疎かったのです。これには統制派だけでなく、皇道派からもバッシングされ、病気になった荒木は陸相を辞任してしまいます。
荒木が辞任した後、林銑十郎が陸相に就任します。統制派は皇道派を放逐していったのです。その中で陸軍士官学校事件(十一月事件とも)が起こります。皇道派の急先鋒とも言える磯部浅一と村中孝次という2人の青年将校が士官候補生を煽動して、クーデターを画策しているとして逮捕されたのです。証拠不十分で不起訴にはなったものの、2人は停職処分となりました。真相は不明ですが、これは士官学校教官だった統制派の辻政信によるでっち上げだという説があります。また、林の陸相就任と共に中央に返り咲いた永田が2人を停職処分を承認したことから皇道派の怨みを買うことになってしまいます。
統制派は未だに教育総監という要職に就く真崎が邪魔で仕方ありませんでした。しかし、林は満洲事変の際、独断で朝鮮から援軍を出した罪で退役させられるはずでしたが、真崎の口利きによって退役を免れたことから真崎にだけは頭が上がりませんでした。しかし、真崎は弱まった皇道派の勢力を挽回すべく、人事に口出ししまくり、林もとうとう我慢の限界に達したのです。統制派は真崎に教育総監辞任を迫りますが、当然真崎は応じません。予てから真崎を嫌う統制派は真崎の悪口を各所に吹聴しまくっており、宮中でも真崎の評判は最悪でした。そして、ついに参謀総長である閑院宮載仁親王を動かして、真崎を半強制的に辞任させてしまいます。
陸軍士官学校事件や教育総監を追われた真崎が「永田軍務局長の陰謀じゃないか」と疑ったことなどから、相沢事件に発展します。皇道派の将校相沢三郎が陸軍省内で白昼堂々、永田を斬殺してしまったのです。この事件の責任を取る形で林は陸相を辞任します。次に陸相となったのは、どちらの派閥にも属さない川島義之だったのですが、この派閥抗争を鎮めることができず、ついに二・二六事件が起こることになってしまいます。
二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日、総選挙からわずか6日後のことでした。青年将校たちが真崎を首相とする軍事政権樹立を目指し、ついに決起したのです。まずは重臣を襲撃し、松尾伝蔵(岡田首相の妹婿で岡田とそっくりだったため間違えられた)・高橋是清蔵相・斎藤実内府・渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木貫太郎侍従長には重症を負わせました。さらに陸軍省および政府中枢を占拠し、陸軍を通じて「昭和維新」を天皇に訴えかけます。川島陸相は動揺して何もできずあたふたするばかりでしたが、昭和天皇が激怒して鎮圧を命じます。(本来、天皇は直接軍隊を動かしてはいけないので、昭和天皇はこの時のことを「若気の至り」だと反省しておられますが、こういう緊急事態なら仕方がないのです)この二・二六事件は4日で収束するのですが、閣僚2人を失った岡田首相は総辞職することになってしまいました。また、事件の首謀者である青年将校は死刑となったのですが、その青年将校に思想的影響を与えた北一輝と西田税も連座で死刑となります。しかし、事件の黒幕と目された真崎も逮捕されるのですが、こちらは無罪となっています。
この後、陸軍から皇道派のほとんどが予備役に回され、統制派が主導権を握り、軍閥闘争は終焉を迎えます。ところが、これは終わりの始まりに過ぎなかったのです。統制派が主張していた対支一撃論が実行され、泥沼にはまるわけです。
皇道派と統制派の血で血を洗うような抗争は日本をとんでもない方向に導くことになります。
二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎ですが、実際には青年将校の人気取りをしてたら統制が取れなくなって暴発してしまったというところでしょう。
事件を起こした青年将校を皇道派と呼ぶことがありますが、こちらも厳密には間違いのような気がします。
また、良識派と呼ばれる永田鉄山がいれば、対米開戦へと進むことはなかったいう意見がありますが、こちらも怪しい。
今後やっていきますが、陸軍だけの問題じゃないんですよね。
次回は、世界の様子を見ていきます。ヒトラー、スターリン、フランクリン・ルーズベルトという日本にとって迷惑極まりない人たちがこの頃には政権に就いているのです。