第66回もう一度まなぶ日本近代史~楽観的すぎる広田内閣、日独防共協定と西安事件~

文:なかむら ひろし

 国内の派閥抗争が激化する中、陸軍青年将校が二・二六事件を起こします。高橋是清や斎藤実らが殺害される大きな事件だったのですが、事件自体は昭和天皇の命により、たった4日で鎮圧されました。ところが、この事件がもたらした影響はとても大きかったのです。

難航する首班指名

 元老西園寺公望は、「今度こそ平沼騏一郎内閣の誕生だ」という声がある中、貴族院議長であった近衛文麿を後継首班に考えていました。近衛といえば、公家の中でも名家中の名家出身で、現在でいう京大卒(東大から京大に編入)という秀才、さらに若くてビジュアルも良く、何よりも腐敗した政党政治に染まっていないということで、政財界や軍部だけでなく、国民人気も高い人物です。ただ、問題がひとつあって、近衛は陸軍皇道派に近い人物でもあったのです。当然、西園寺と考えが合うはずがありません。しかし、この現状を打開するには近衛しかいないと、後継首班に奏薦することにしたのです。こうして大命降下を受けた近衛でしたが、病気を理由にこれを固辞してしまいました。近衛としては、西園寺と考えが合わない上に、次期内閣が行なわなければならない最初の仕事は二・二六事件の「粛軍」ですから、皇道派に近い近衛にできるはずがなかったのです。
 西園寺は近衛に断られましたが、やっぱり平沼を奏薦したくありません。そうして首班指名が難航する中、斉藤内閣と岡田内閣で外相を務めた広田弘毅の名前が挙がります。皇道派がソ連への敵視をむき出しにしていたこともあり、日ソ関係は悪化しており、駐ソ大使を務めていた広田は悪くないという話になったのです。しかし、こんな状況で首相になりたがる人なんていません。広田は外相でさえキャリア不足の中で就任したのに、首相なんてとんでもないと断ります。それでも近衛や外務官僚の吉田茂の説得によって、ようやく首を縦に振ったのです。

内部抗争から政治介入へ

 大命降下を受けた広田は早速組閣に取り組みます。政友会と民政党の両党から入閣させ、挙国一致内閣を目指したのですが、陸軍が組閣人事に口ばしを入れてきました。陸相に就任するはずだった寺内寿一が「閣僚の面子が気に入らないから辞退する」と言い出したのです。広田は組閣を諦めようとしましたが、政治空白が続くのは良くないと周囲から説得され、陸軍に妥協して組閣することになります。これまでも軍部による組閣干渉が行なわれたことはありましたが、それは軍部大臣に限った話で、今回のように軍部大臣以外に横槍が入るようなことは初めてでした。
 1936年(昭和11年)3月に成立した広田内閣は、寺内陸相を中心に「粛軍」という仕事に取り掛かることになります。まず、二・二六事件の責任を取らせる形で荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎ら7人の将軍を予備役に回します。次いで皇道派に近い将校にも粛軍人事を行い、陸軍から皇道派を一掃したのです。さらに寺内陸相は、「粛軍」の一環として「軍部大臣現役武官制」の復活を求めます。これは第1次山本権兵衛内閣の時に「軍部の発言力が強くなりすぎる」として「現役」の2文字が消されたのですが、「皇道派が陸相として返り咲く可能性が残るので危険だ」として復活を求めたのです。「粛軍」に反対する者はなく、これまで現役の将軍以外が軍部大臣に就任した例もなかったので、寺内陸相の要求はあっさり通ってしまいました。その結果、陸軍の意に反する内閣には大臣を送らなかったり、辞任させて後任を出さないという方法で内閣を潰すことが可能になったのです。こうして陸軍の内部抗争の終焉は、陸軍の政治介入を本格化させることになります。

世界中を敵に回す広田内閣

 軍部大臣現役武官制の復活によって、広田内閣は陸海軍の意向を無視できなくなり、身体は1つなのに頭は3つあるキングギドラ状態になっていました。そして、このキングギドラはとんでもない対外政策をとることになります。陸軍はソ連の軍拡や社会主義の侵出を警戒して、英米との融和を訴えました。一方、海軍は英米に対抗するためには東南アジアに進出して海路や資源を獲得すべきだとして、ソ連とは関係改善を図るべきと訴えます。陸海軍の意向を汲み取った結果、広田内閣が決定した対外政策は「南北併進」という英米ソすべてを敵に回すものになってしまったのです。これは利害関係国を含めると、世界中のほとんどの国を敵に回すことになります。広田首相は「陸軍も海軍も予算が欲しいだけで本当に戦争をする気なんてない」と楽観視していました。しかし、軍拡を進めながら「本当に戦争する気はございません」なんて外国には通じるはずもありません。また、軍部も本当に戦争になりかけた時、これまで散々予算を要求してきたのに「本当は戦争なんかする気はなかったんです」などとは決して言えません。
 さらに英米ソを刺激したのがドイツへの接近です。ドイツは、日本と同様に国際連盟を脱退すると、ヴェルサイユ条約を無視して軍拡を始め、非武装地帯として定められていたラインラントへの進駐を行なうなど、欧州にケンカを売りまくり、国際的孤立を深めていました。そして、同じような境遇にあった日本へ接近してきたのです。ヒトラーの外交ブレーンであったリッベントロップは、駐独大使付武官であった大島浩に日独両国にとって脅威となり得るソ連に対抗するための協定を結ぶことを打診します。大島は参謀本部の同意を得ると、外務省を通さずに交渉を進めたのです。この交渉が明らかになった頃には、ソ連の脅威が現実味を帯びており、広田内閣も軍事同盟ではないし、それほど英米を刺激することもないだろうと異論を唱えることはありませんでした。こうして、1936年(昭和11年)11月に日独防共協定が締結されました。これは共同でコミンテルンの赤化活動を防ごうというもので、それほど軍事色が強いものではなかったのですが、ソ連との関係はますます悪化し、英米は危ない国同士が接近したことに警戒感を覚えることになります。

その後の日中関係を決定付ける大事件

 二・二六事件以降、日本国内の混乱に乗じて中華民国では排日活動が激化していました。特に縄張りを荒らされた海軍は激昂し、陸軍と協力して軍事行動を起こすことを提案するのですが、陸軍はあくまで他人事で実行に移されることはありませんでした。しかし、ここでも関東軍が独走してしまいます。中華民国から独立を目指す内蒙古を武藤章が支援し、ここにも親日政権を樹立しようとしたのです。しかし、内蒙古軍は国民党軍に敗北してしまいます。すると蒋介石はこの勝利を「関東軍に勝った」と喧伝しまくるのです。こうして、中華民国の抗日ムードが隆盛を極めることになります。
 そんな中、蒋介石は共産党を一掃すべく、西安に張学良を派遣していたのですが、一向に共産党と戦おうとしませんでした。なんと張学良は共産党の「今は内戦を止めて、協力して日本を撃退しよう」と呼びかける所謂「八・一宣言」に同調してしまったのです。不審に思った蒋介石は西安に赴くのですが、ここで張学良に捕らえられてしまいます。毛沢東は蒋介石をさっさと処刑してしまうつもりだったのですが、側近の周恩来はこれを制します。そして、蒋介石・張学良・周恩来による会談が開かれるのです。その結果、内戦の停止と挙国一致で日本に対抗することが決定されます。当初、蒋介石は処刑も恐れず、停戦に反対していたのですが、どうして急に心変わりしたのかは現在も不明なままだったりします。
 この西安事件をきっかけに日中友好の道はほとんど不可能となり、日本は泥沼にはまってしまうことになるのですが、これで名前を挙げた人物が存在します。蒋介石が捕まったことは世界中に伝えられ、日本でも多くの有識者は「蒋介石は処刑されただろう」と言っていたのですが、ただ1人だけ「蒋介石は生きている」と言った人がいたのです。それが尾崎秀実です。近衛文麿は尾崎の慧眼を評価し、自身のブレーンが集まる「昭和研究会」に招き入れます。彼がソ連の「ゾルゲ諜報団」のスパイであるとは知らずに。


西園寺は、広田ではなく宇垣一成を後継首班に考えていました。
しかし、二・二六事件の直後に宇垣を持ってくるのはさすがに厳しいと見送りました。
宇垣は民政党と蜜月で、加藤高明内閣の時に大規模な軍縮を行なったことから陸軍に蛇蝎の如く嫌われていたのです。
彼が「政界の惑星」と呼ばれるのは、首班候補として名前が挙がりながらも結局、首相になれなかったからです。
しかし、いよいよ最大のチャンスが訪れるのです。

 陸海軍の板ばさみに苦しむ広田内閣が長続きするはずもありません。しかし、まだ日本に挽回できるチャンスはあったのです。あったのですが・・・

なかむら ひろしのTwitter

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