第67回もう一度まなぶ日本近代史~宇垣内閣流産、どうしてこうもかみ合わない?!~

文:なかむら ひろし

 二・二六事件によって岡田啓介内閣が倒れると、外相を務めていた広田弘毅が首相に就任しました。広田首相は、陸海軍のどちらにもいい顔をして、「南北併進」という世界中を敵に回すような無茶な国策を打ち出してしまいます。さらにナチス・ドイツと日独防共協定を締結したことで、英米に「日独が秘密の軍事協定を結んだのではないか」という疑念を抱かせることにもなります。一方、中国では西安事件によって国民党と共産党が停戦し、その矛先が日本へ向かおうとしていたのです。

所詮は「拾った」内閣

 対外政策でやらかしてくれた広田内閣ですが、経済政策でもやらかしちゃってくれます。高橋是清前蔵相は積極財政で有名ですが、あくまでデフレ脱却のためにインフレ政策を進めました。そのため、軍部のさらなる予算の要求はインフレが行き過ぎるため、突っぱねています。そんな高橋の公債漸減主義を無視して馬場鍈一蔵相は、軍事に予算を割くため、赤字公債を濫発したうえに増税まで決定してしまいます。その結果、円相場は暴落し、物価が高騰してしまったのです。
 こうして経済が混乱する中、議会で大喧嘩が始まります。政友会の浜田国松議員が「軍部の政治干渉が甚だしい」と軍部及びその軍部の言いなりになっている広田内閣を痛烈に批判しました。これに対して寺内寿一陸相が「軍部を侮辱するな!」と逆ギレすると、浜田議員は「侮辱なんてしていない!速記録を調べてみて、侮辱したような言葉があったら腹を切って謝罪するが、もしなかったらあなたに腹を切ってもらう!」と切り返し、議場は大混乱となります。これが所謂「腹切問答」と呼ばれるものです。この直後、激怒した寺内陸相は広田首相に衆議院解散を求めます。さらに解散に応じない場合は陸相を辞任すると言うのです。さっさと予算を成立してもらいたい永野修身海相は寺内陸相に説得を試みるのですが、話はまとまらずに閣内不一致に陥り、広田内閣は倒れてしまったのです。

ジョーカーを切ったつもりが

 広田内閣が倒れると、西園寺公望は次の首相に宇垣一成を奏薦しました。宇垣は陸軍軍人としてだけではなく、後の首相を育成するためのポストともいえる朝鮮総督でもその政治手腕を発揮するなど、大変優秀な人物です。そして、最も大きいのがソ連や中華民国をなんとかするには英米との協調は不可欠だという考えの持ち主であったことです。宇垣こそが西園寺の最後の切り札ともいえる人物だったわけです。こうして、1937年(昭和12年)1月に宇垣に組閣の大命が降下したのです。
 ところが、宇垣の組閣を妨害する人物が現れます。石原莞爾です。満洲事変後、左遷されていたのですが、この頃には陸軍中央に復帰していました。石原は、何よりもソ連に備えなければならないと考えていたのですが、中央に復帰してみるとソ連に対する軍備があまりにも杜撰だと驚きます。ソ連は五ヵ年計画を完成させつつあり、日本の想定以上に兵力も武装も強化されていたのです。石原は、一刻も早くソ連に対抗できるだけの軍拡を進めようとしますが、それだけの予算を国内から持ってくることは困難でした。そこで、満洲国開発を推進して軍拡を進めようという計画を練ります。その計画の邪魔になるのが宇垣だったのです。石原は軍縮を進めたり、弱腰外交を支持した宇垣が信用できず、宇垣内閣へ陸相を送らないよう陸軍内を奔走します。当初、陸軍中央は「もう首相は宇垣でいいよ」という空気だったのですが、「世論が粛軍を求める中、二・二六事件の引き金のひとつである三月事件に関与したとされる宇垣に首相をやらせるのはいかがなものか」と説得し、ついに宇垣内閣に陸相を出さないことが決定されたのです。
 広田内閣の時、軍部大臣現役武官制が復活したため、陸軍が陸相を送らなければ、現役から退いていた宇垣には組閣することができません。しかし、まだ最終手段が残っています。宮中に掛け合って、天皇の命令で「陸軍に陸相を出させる」もしくは「宇垣自身を現役に復帰させる」というものです。以前やった第3次桂太郎内閣と同じような方法です。ところが、湯浅倉平内大臣は「ここまでやったら、陸軍がまた何をしでかすかわからない」と宇垣の要求を拒絶してしまいます。こうして、宇垣内閣は流産してしまったのです。

石原VS梅津

 最後の切り札であった宇垣内閣を潰された西園寺は、完全にやる気をなくして首班奏薦を「元老の意見を参考にしながら内大臣が主体となって決める」と変更します。「元老の意見を参考にしながら」というのは、湯浅内府が無理矢理ねじ込んだだけで、もう西園寺は引退する気満々でした。こうして、湯浅内府主導で次の首相が決められることになります。まず、第一候補に挙がったのは平沼騏一郎でした。しかし、平沼は陸軍の意向を理解し、これを断ったので、石原がプッシュする林銑十郎に大命が降下されることになります。
 林といえば、満洲事変の際に石原に頼まれると独断で朝鮮軍を派兵した人物です。石原は、林をロボットとして相応しいとしてプッシュしていたのです。そして、陸相には盟友である板垣征四郎を起用することで、自身の理想を実現しようとします。しかし、これに待ったをかけたのが梅津美治郎でした。この人は、皇道派にも統制派にも属しておらず、寺内陸相時代に次官を務めていたのですが、超が付くほどの真面目人間です。粛軍の空気の中で軍人の首相はよくないと宇垣内閣を潰すことには協力したのですが、その後継がまた軍人であるだけでなく、石原のロボットとなれば、明らかな陸軍の専制であると組閣を妨害したのです。その結果、林は石原を裏切ります。板垣が陸相から外されるなど、林内閣は石原の思い描くようにはならなかったのです。
 こうして、林内閣が成立することになるのですが、政党から入閣したのはわずか1名でした。政党からの支持も厚かった宇垣内閣を潰したことから、政党の支持はまったく得られなかったのです。そんな内閣が長続きするわけもありません。

最も意味のない内閣?

 ものすごく風当たりの強い状態でスタートした林内閣でしたが、結城豊太郎蔵相の下、軍と財界の利益を調整する「軍財抱合」を掲げて予算を通過させます。しかし、突如として衆議院を解散したのです。予算を通過させて、特に解散する理由などありません。しかも、選挙の結果は林内閣打倒を目指す政友会・民政党が圧勝し、林内閣は退陣してしまったのです。これが最も意味のない内閣と呼ばれる所以です。
 ただ、「国力を高めることに集中して、絶対にソ連や中華民国に手を出してはいけない」という外交姿勢を打ち出していた佐藤尚武外相も去ってしまったという点が非常にもったいなかったといえます。実は、その後の戦略に違いはあれど、宇垣も石原も同じようなことを言っていたのです。しかし、次の内閣で広田が外相に復帰したり、石原が退役させられて陸軍が「対支一撃論」を掲げる統制派の天下になったことで泥沼にはまってしまうことになります。


いかつい風貌をしながら流されやすい林銑十郎。
石原曰く「猫にも虎にもなる人」とのこと。
しかし、石原のロボットにもなり得なるほどの人物ですらありませんでした。
彼の政権は短命で「食い逃げ解散」「何もせんじゅうろう」などと言われ、印象に残らない首相としてある意味では有名に。
そのため、「学生泣かせ」の林内閣などと呼ばれることも。

 ここ数回はあまり受験には触れられない話でしたが、教科書に載っているほとんどのことをやった「あの男」が次回首相になります。

なかむら ひろしのTwitter

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