第68回もう一度まなぶ日本近代史~謎の銃声から泥沼へ、盧溝橋事件~

文:なかむら ひろし

 政党・陸海軍の内輪もめで退陣した広田弘毅内閣の後継として、宇垣一成が奏薦されました。しかし、宇垣を良く思わない石原莞爾ら陸軍の一部が広田内閣の時に復活した軍部大臣現役武官制を利用して、宇垣内閣を流産させてしまいます。その後、石原の傀儡である林銑十郎が首相となるのですが、国民からの期待も高かった宇垣内閣を潰した陸軍は支持されず、政党の協力を得ることはできません。林首相は、融和策をとって予算を通過させたものの、突如として衆議院を解散させます。ところが、新党を結成するなど打開策をひとつも講じることなく、結果は既成政党の大勝に終わり、林内閣は退陣してしまうことになります。

彼を支えるのは圧倒的な人気のみ

 これだけバカバカ内閣が潰れると、後継者にふさわしい人物がほとんどいなくなってしまいました。その結果、近衛文麿への期待が最高潮に達し、世間は近衛待望論で溢れかえっていたのです。湯浅倉平内大臣は「もう近衛しかいないだろう」と近衛に打診しますが、近衛はこれを断ります。すると、陸軍が杉山元陸相を推薦したのです。しかし、杉山案が出てくるや首相奏薦から手を引くと言っていた西園寺公望が「それだけはアカン」と猛反対します。結局、「近衛しかいない」ということで、強引な形で近衛に大命が降ることになりました。そして、近衛の方もさすがにこれ以上は断れまいと引き受けることになったのです。こうして、1937年(昭和12年)6月に近衛内閣が誕生します。
 近衛内閣は、政党からも閣僚を出す挙国一致内閣でした。杉山元と米内光政が陸海相を留任、内相は馬場鍈一、蔵相は額賀興宣が次官から昇格し、広田弘毅を外相に復帰させるなどしましたが、一番のサプライズ人事は内閣書記官長でした。内閣書記長官は現在で言うところの内閣官房長官、内閣の顔ともいえます。そんな重要なポストに就任したのが風見章という人物なのですが、世間では「こいつ、誰やねん!」という反応です。風見は、近衛のブレーン集団である「昭和研究会」の一員で、新聞社出身ということもあり、マスコミ対策に精通していました。近衛は政財界や軍部など各方面から受けが良かった一方、強力な支持基盤を持っていません。彼を支えたのは国民からの圧倒的な人気だけだったのです。その人気を維持するには、マスコミ対策が重要になるわけです。風見の戦略は功を奏し、空前の近衛フィーバーが訪れることになるのですが・・・

盧溝橋に響く銃声

 1937年(昭和12年)7月、近衛内閣が成立して間もなく大きな事件が起こります。その日、大陸に駐留していた日本軍は北京郊外にある盧溝橋付近で軍事演習を行なっていました。これは北清事変後に結ばれた北京議定書によって認められており、問題があるものではありません。日本だけでなく英仏も軍隊を駐屯させ、軍事演習を行なっています。その演習中、日本軍は同じく盧溝橋付近に駐屯していた国民党軍から銃撃を受けたのです。その後、日本軍も反撃を行い、しばらく戦闘が続きます。これが盧溝橋事件です。実はこの事件、現在も最初の一発を何者が撃ったのかは明らかではありません。国民党軍も先に日本軍から銃撃を受けたと語っており、学校などでは日本軍による自作自演とする説で教えられたという方も多いと思います。しかし、国民党軍は華北にだけでも日本の何十倍もの兵力を有していたり、そもそも日本軍は空砲で演習を行なっており、実弾を持っていなかったことなどの理由で、現在の研究では日本の自作自演説は否定されているようです。
 一方、国内では事件の処理を巡って意見が分かれていました。まず、陸軍内でも統制派の東条英機や武藤章らが「この機会にチャイナを懲らしめるべき」と主張したのに対し、石原莞爾ら満洲派は「チャイナに手を出してはいけない」と主張し対立していました。結局、ここでは統制派の意見が通り、杉山陸相は居留民の保護を理由に「3個師団派遣」を五相会議で訴えます。ところが、陸軍に予算を取られたくない米内海相が「まずは現地解決に努めるべき」と反対すると、近衛首相と広田外相もこれに賛同したことで、杉山陸相は要求を取り下げました。こうして、近衛内閣は「不拡大方針」を打ち出し、現地で停戦協議が進められることになります。

出すといったり出さないといったり

 近衛内閣の不拡大方針を受けて、現地での停戦協議が進み、両軍が撤退することになったのですが、国民党軍は撤退せず、挑発を繰り返しました。さらに国民党が更なる兵力の増員を図っているという情報が入ると、近衛内閣は3個師団派遣を閣議決定してしまいます。ところが、同日に現地では停戦協定が結ばれており、派兵は見送られることになるのですが、近衛首相が余計なことをしてくれていました。近衛首相は「3個師団派遣を閣議決定した」と政府声明を発表してしまっていたのです。この声明が中華民国を刺激したことは言うまでもありません。これは国民に毅然とした態度を示し、支持率アップを狙ったパフォーマンスで、風見書記官長の提言によって行なわれたといわれています。また、この時に一連の事件を「北支事変」と命名しています。
 盧溝橋事件後、共産党は「親日は売国だ!今すぐ全面戦争だ!」と煽りまくります。国民党が日本と戦い、消耗したところで取って代わってやろうという目論みです。蒋介石はこれを理解しており、日本とやり合う気などさらさらありませんでした。しかし、近衛首相の派兵声明が伝わると、もはや引くことができなくなります。世論は激昂し、ここで軟弱論を言えば、自らの命も危ないという状況です。こうして、蒋介石は所謂「最後の関頭声明」を発表し、現地で結ばれた停戦協定はご破算になってしまったのです。

動かざること山の如し

 こうした緊迫した状況の中でも、いまだ陸軍は拡大派と不拡大派で意見がまとまっていませんでした。不拡大を訴える石原は「華北から全軍を満洲国境まで引き上げ、戦う意思がないことを伝えた上で、近衛首相に南京まで飛んでもらって、蒋介石と話をまとめてもらう」ことによって解決するしかないと考えます。そして、風見書記官長を通して近衛首相に考えを伝えると、近衛首相も乗り気な態度を見せたのです。ところが、近衛首相は一向に動こうとしません。石原が風見書記官長に問い合わせると、「作戦部長ごときの言うことを聞いて、あとから陸軍に勝手なことをされても困る」という返答でした。それならばと、石原は陸軍省に乗り込んで、杉山陸相から再度提案してもらおうとします。梅津美治郎陸軍次官から「チャイナ相手に譲歩しても調子に乗るだけだし、そもそも近衛にそんな度胸はない」などと言われながらも、陸軍省から掛け合ってもらうように話をつけました。その後、杉山陸相は約束通り、近衛に蒋介石との首脳会談を促します。しかし、近衛首相は自ら南京に乗り込む気などなく、結局首脳会談が行なわれることはありませんでした。これには石原も「こんな奴が首相をやってたら日本が滅びる」と激おこプンプン丸です。
 ただ、近衛首相も和平に向けて何もしなかったわけではありませんでした。裏で和平工作を進めていたのです。蒋介石も交渉のテーブルに着く気はあり、特使を南京に送って欲しいと言ってきます。そして、孫文の盟友であった宮崎滔天の息子で社会主義運動家の宮崎龍介を派遣することになりました。(ちなみにこの人は、朝ドラ『花子とアン』に出てくる宮本龍一のモデルになった人だったりします。)このことは杉山陸相から了承も得ていたのですが、和平工作が陸軍の強硬派に漏れると、憲兵を動かして出発直前の宮崎を逮捕してしまったのです。その結果、近衛の和平工作も頓挫してしまいました。この事件によって、近衛首相は「あいつが秘密を漏らしたに違いない」と、杉山陸相は信用を失い、後に辞任に追い込まれることになります。


林内閣と続く近衛内閣で陸相となった杉山元。
杉山元陸相と書くと、フルネームなのか元(もと)陸相なのかややこしい人。
ちなみにこの人、陸軍大臣・参謀総長・教育総監という三長官すべてを経験したスーパーエリートです。
ところが、そんな彼のあだ名は「便所の扉」だったりします。
由来は「どちら側から押しても開く」つまり「どこにでもいい顔をする八方美人で押しに弱い」ということです。
誰も把握できないくらい派閥が乱立する陸軍ではこういう人が出世しやすいのです。

 次回、とうとう泥沼にはまります。残虐事件も相次ぎ、もう止められません。

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