第69回もう一度まなぶ日本近代史~第二次上海事変、本格的な武力衝突のはじまり~

文:なかむら ひろし

 林銑十郎内閣が倒れると、国民からの人気も高い近衛文麿内閣が誕生しました。しかし、その僅か1ヵ月後に盧溝橋事件が勃発し、日中が再び緊張状態となってしまいます。最初、近衛内閣は不拡大方針を打ち出し、現地でも停戦協議が行なわれます。しかし、国民党軍は撤兵せずに挑発を繰り返したことから、近衛内閣も強硬論を唱えるようになり、派兵の閣議決定と政府声明を発表してしまいます。直後に現地で停戦協定が結ばれたことで、派兵は見送られますが、世論に押された蒋介石は日本と戦うことを宣言したのです。

通州の悲劇

 現地で停戦協定が結ばれたことで、派兵を見送っていた近衛内閣でしたが、国民党軍の挑発は止まず、三度派兵が閣議決定されます。それでも何度も攻撃を受けながら事件を拡大したくない現地の陸軍は「派兵するほど状況は悪化してません」と言って、派兵を見送るように促しました。ところが、華北において廊坊事件・広安門事件という日本軍が襲撃される事件が相次いで起こると、不拡大派の石原莞爾も「このままでは居留民が危ない」と諦め、派兵に賛成するようになります。こうして、何度も見送られてきた派兵が遂に実行されることになったのです。ところが、日本軍が進撃を開始したところで怖ろしい事件が起こってしまうのです。
 事件が起こった通州は、日本が華北分離工作によって作った傀儡政権があり、日本にとっては比較的安全な場所でした。ところが、日本軍が国民党軍と戦うため、通州を離れたときに事件が起こりました。通州の中国人保安隊が国民党側に寝返り、日本人居留民230名を虐殺したのです。ここでは詳しく書きませんが、それはそれは残虐な方法で殺害されたようです。この事件が国内で報じられると、国民世論は激昂し、陸軍以上に政治家が強硬論を唱えるようになってしまいます。
 この通州事件は、国民世論を硬化させた重大な事件なのですが、どういうわけか教科書で扱われることはありません。また、事件の原因も国民政府の謀略だけでなく、関東軍が保安隊兵舎を誤爆し、数名の死者を出したからだとか、通州がアヘンの密造・密売の拠点になっていたからだという説など諸説ありますが、どれも民間人を虐殺していい理由にはなりません。

ここに来て海軍が事変を拡大

 通州事件という虐殺事件が起きた後も和平交渉を諦めたわけではありません。これまで仕事をしなかった外務省が動いたのです。外交官出身の船津辰一郎が根回しを行なったことから「船津和平工作」と呼ばれます。この時、外務省は陸海軍といっしょに和平条件をまとめました。これは満洲事変以降に結ばれた日本に有利な協定を破棄し、日本が華北から撤退する代わりに、国民政府は反日をやめ、満州国を承認または黙認するというかなり譲歩した内容でした。川越茂駐華大使が途中で「そんな話は聞いてない」といって介入してくるというアクシデントはあったものの、交渉は進んでいくはずでした。しかし、またしてもいらんことをしてくれる奴が現れるのです。
 事件は上海で起こります。海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤要蔵一等水平が殺害され、遺体が損壊されるという大山大尉事件が起こったのです。これには米内光政海相も激怒し、すぐさま陸戦隊を上海に上陸させ、謝罪と犯人の処罰、再発防止策などを要求します。しかし、国民政府はこれを無視すると、突如として海軍陸戦隊に砲撃を加えてきたのです。第二次上海事変の勃発です。しかも、国民政府は以前から第一次上海事変後に結ばれた停戦協定を無視し、上海に兵力を集結しており、現地の海軍との兵力差は歴然でした。このままでは居留民も危ないということで、現地の海軍は「陸軍に派兵して欲しい」と軍令部に伝えました。米内海相は四相会議で陸軍の上海派兵を要請し、受諾されます。閣議では賀屋興宣蔵相だけが「お金がない」と反対するも、米内海相の一喝もあって、正式に閣議決定されてしまいます。こうして、海軍航空部隊が南京を渡洋爆撃を行うなど、上海にも事変が拡大していきます。その結果、船津和平工作は頓挫してしまうのです。この時、盧溝橋事件から始まる華北での紛争を「北支事変」と呼んでいましたが、華中にまで拡大したことから「支那事変」と呼ぶようになりました。

今度のチャイナは侮れない

 一方、蒋介石は全力で日本と戦うために本格的に共産党と手を組むことになります。まず、ソ連と中ソ不可侵条約を結び、ソ連から金銭だけでなく武器などの援助を受けます。ソ連にとって、日本が国民党と争って消耗してくれることは安全保障上、望ましいことです。それが金で買えるとなると喜んで援助を行なってくれるわけです。さらに蒋介石は2度目の国共合作を行ないます。共産党に対する不信は変わらなかったのですが、日本との和平交渉が難しくなってくると、共産党と手を組むことで事態の打破を図ろうとしたのです。このように日本が場当たり的な対応をしている中、国民政府は着実に日本との戦いに備えていたのです。
 また、日本を想像以上に苦しめたのがドイツの存在でした。ドイツは軍事顧問団を送り、武器も援助していました。ドイツといえば、広田内閣の時に日独防共協定を結んだ仲です。当然、日本は国民政府への援助を止めるように要求するのですが、ドイツは軍事顧問団を引き上げさせることもなければ、武器の輸出も裏で行ない続けました。世界からハブられているドイツにとって、大陸の市場は簡単に手放せるものではなかったのです。

利害が一致するドイツにお願いしよう

 松井石根大将率いる上海派遣軍が到着すると、陸海軍が協力して本格的に上海攻略を開始していました。先述したように国民党軍は手ごわく、甚大な被害を出しながらも次々と増援を送り、日本軍優勢へと変化していきました。ここで参謀次長である多田駿中将が和平のタイミングだと主張します。(参謀総長が宮様、石原が関東軍へ左遷となったことから多田参謀次長が早期和平の中心人物となっています)そこで、広田弘毅外相は同時期に駐ソ大使を務め、親しい間柄だったドイツのディルクセン駐日大使に仲介を依頼しました。ドイツは国民党と親密であり、国民党が失脚することを望みません。また、日中が争うことで最も得をするのがドイツにとっても目の敵であるソ連です。ドイツは駐華大使トラウトマンを中心に日中の和平を斡旋することになります。これがトラウトマン和平工作です。
 ここで示された和平条件は、先述の船津和平条約とほぼ同様の内容で国民政府にとっては受け入れやすい内容でした。しかし、蒋介石はすでに国際連盟に提訴しており、その結果を待っている状態だっため、回答を保留してしまいました。トラウトマンは「ここで条件を飲まないと、日本側はもっと厳しい条件を提示せざるを得なくなりますよ」と忠告してくれているのですが、蒋介石は「国際連盟が日本に何らかの制裁を与えてくれるはずだから、その後の方がより譲歩を引き出せる」と考えており、ここで和平交渉が行なわれることはありませんでした。しかし、こうしているうちに上海は陥落し、南京攻略が行なわれようとしていたのです。


上海派遣軍司令官となった松井石根陸軍大将。
苦戦を強いられながらも上海を陥落させます。
しかし、休む間もなく南京攻略が行なわれることになります。
ここで起こったとされるのが所謂「南京大虐殺」です。
そのことで、戦後の東京裁判で死刑となってしまいます。
当時から親中派として知られていた松井大将が何故?
その辺りのことは、また次回ということで。

 次回は、南京攻略が開始され、トラウトマン和平工作がどうなっていったのかを見ていきます。

なかむら ひろしのTwitter

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