第70回もう一度まなぶ日本近代史~爾後、國民政府ヲ対手トセズ~
盧溝橋事件を発端として日中の武力衝突が起こると、それが上海にも飛び火し、第二次上海事変が勃発してしまいます。ここで、政府は事変の名称を「北支事変」から「支那事変」と改めます。上海での戦闘が続く中、外務省はドイツを仲介としたトラウトマン和平工作を進めていくのですが、日本を国際連盟に提訴した蒋介石は、日本の提示した和平条件を保留しました。その間に現地軍は上海を陥落させ、南京への進撃を開始しようとしていたのです。
暴走した世論
日本が提示した和平条件を保留していた蒋介石でしたが、国際連盟から望んでいたような結果を得られず、ついにドイツを仲介とした和平交渉に乗り気になってきました。蒋介石は、軍事長官会議を開き、日本との和平を検討したところ、「こんな条件を提示してくるんやったら、最初から戦争なんてする必要がなかったんや」と、日本の和平案を受け入れても良いという結論が導き出されたのです。ただ、蒋介石の日本への不信感は強く、「華北の行政権の確保」と「戦勝国面をして交渉に臨まないこと」を強調しています。これでようやく和平交渉が行なわれるかと思いきや、蒋介石の回答は遅すぎました。
蒋介石が日本への回答を保留している間、現地軍は上海を陥落し、南京への攻撃を開始していました。そんな中、マスコミが「今にも南京は落ちる」と大々的に報じると、国民は「もう少しで俺たちの大勝利だ」と歓喜に沸いたのです。さらに第二次上海事変での日本軍の被害は甚大で、日本が提示していた和平条件など、国民世論が納得できる状況ではなくなっていました。こうして、広田弘毅外相は「今となっては、そんな甘い条件で和平なんてできません」と和平条件の吊り上げを行なうことになります。
南京大虐殺とは何だったのか?
1937年(昭和12年)12月、南京への進撃を続け、ついに南京城を包囲した日本軍は降伏を勧告しますが、回答期限が過ぎても応じようとしなかったため、南京総攻撃が開始されます。すると、マスコミが南京城への攻撃が始まったばかりなのにも関わらず、「南京陥落」のニュースを報じてしまったのです。国民は歓喜に沸き、お祭り騒ぎです。これを知った現地軍はもはや南京を陥落させるほかなくなり、本当に南京を陥落させてしまったのです。ここで起こったとされるのが南京事件、所謂「南京大虐殺」です。
南京事件は、現在でもその全容は明らかではありません。現在の中国政府の見解では30万人の中国人が虐殺されたとされていますが、当時の南京の人口は20万人程度で、事件後の人口は25万人に増えているというデータがあり、30万人虐殺説は誇張であると思われます。しかし、逆に「南京事件はなかった」とする説も自然ではありません。
南京への総攻撃が行なわれる直前に蒋介石は、現地軍司令官を残して南京を脱出し、首都を重慶へ移しており、当時の南京は無政府状態でした。さらに南京総攻撃が開始されると、現地軍司令官も逃亡し、国民党軍は大混乱に陥っています。さらに国民党軍には督戦隊という敗走兵を射殺する部隊がいました。司令官を失い、投降することも許されない国民党軍が暴徒と化したとしても不思議ではありません。また、国民党軍は「便衣兵戦術」というものを行なっています。軍服を脱ぎ捨て、民間人の格好をして攻撃してくるのです。南京に便衣兵がいたがどうかは別にしても、それまで便衣兵に苦しめられていた日本軍が民間人を誤射していてもおかしくはありません。
また、松井石根大将は元々、南京攻略をした上で和平を結ぼうとしていたわけですが、上海での消耗が激しく、兵の休息と補給を待ってから、南京攻略を行なうべきだと考えていました。ところが、上海派遣軍と合流した第10軍柳川平助司令官が「さっさと南京を攻略すべき」と独走してしまい、兵は休息も補給も受けられないままで南京攻略を行なったのです。そんな状況で略奪も一切なかったとは不自然に思います。日本軍と国民党軍の戦いを監視していた第三国から「日本軍は軍紀を守って戦っていた」と言われたようですが、あくまでも他国からしたらという話でしょう。
事件の真相は明らかではありませんが、「南京大虐殺」という主観が入りまくった言葉(絶対的な客観もまたありませんが)を使用するのは正直、どうかと思います。「犠牲者の数が問題じゃないんだ」などと主張する人は尚更です。この南京事件の問題が根深いのは、事実がどうであるかというよりもプロパガンダとして利用されている点ではないでしょうか。
ルーズベルトさん、パネェっす
南京攻略に際して、南京事件以外にもパネー号事件というものも起こっています。海軍航空隊が中華民国の船と間違えて、アメリカの船を沈め、90名近い死者を出してしまったのです。日本政府はすぐさま、謝罪と賠償、責任者の処分を行なった結果、アメリカは特に報復に出ることはありませんでした。
実は、この事件にフランクリン・ルーズベルト大統領は激怒していました。しかし、1937年(昭和12年)10月に行なった「世界の9割は平和を欲しているが、1割の平和を乱す輩がいる。その1割の輩は感染症患者と同じように隔離すべき」という所謂「隔離演説」を行い、日本を非難したのですが、アメリカ国民からは「アメリカを世界大戦に巻き込むつもりか!」と批判されたこともあり、今回のパネー号事件に関してもグッと堪えたのです。このようにアメリカ国民は日本との戦争を望んでいなかったのですが・・・
どうやって交渉するんや!
南京が陥落すると、政府は新たな和平条件の審議に入りました。ここで決定された和平条件は、以前の国民政府に大きく譲歩した内容から大きく変化していました。以前の内容は日本が華北から撤退する代わり、国民政府は排日を止め、満洲国を承認もしくは黙認することだったのですが、今回の内容は満洲国を正式承認するだけでなく、華北に第二の満洲国とも呼べる親日政府の樹立、さらに敗戦国として賠償金を支払うことなどが組み込んだのです。しかし、蒋介石は当然このような条件を呑む訳もなく、返ってきた答えは「ちょっと何を言ってるかわからないです」というものでした。政府はこの回答を「時間稼ぎ」だとして、和平条件を呑まないのならば、徹底的に戦うべきだと決定します。これには参謀本部が反対するも陸軍省から「これで内閣総辞職になったら参謀本部の陰謀って思われますよ」と脅され、結局賛成に回ってしまいます。
1938年(昭和13年)1月、近衛内閣は国民政府との和平交渉を打ち切り、第一次近衛声明、所謂「爾後、国民政府を対手とせず」声明を発表します。しかし、蒋介石以外に中華民国をまとめられる人物など存在しません。これでは「中華民国をぶっ潰すまで戦う」と言っているようなものです。この声明に蒋介石も激怒し、事実上「国交断絶」状態になってしまいます。こうして、近衛内閣は何度も和平のチャンスがあったにも関わらず、それをすべてフイにしただけでなく、蒋介石との交渉窓口を閉じて、そのチャンスさえも訪れないような状況を作り出していったのです。
国民人気のみに支えられた近衛文麿首相。
マスコミに煽られ硬化した国民世論に迎合しまくり。
その結果、支那事変は悪化の一方を辿っていくことになります。
実はこの後も和平工作が進められるのですが、自ら潰しにかかっているとしか思えないようなことを繰り返します。
彼のブレーン集団「昭和研究会」には多数の共産主義者が紛れ込んでおり、彼自身も赤く染まっていたという説も・・・
次回、近衛内閣は「どう考えても和平を結ぶ気なんてねぇだろ!」と言いたくなるようなデタラメな行動を取っていきます。