第71回もう一度まなぶ日本近代史~本当に和平を結ぶ気あんの?国家総動員法と興亜院問題~

文:なかむら ひろし

 近衛文麿内閣は支那事変の解決を図るため、トラウトマンを仲介とした和平交渉を進めましたが、蒋介石が回答を保留している間に日本軍は上海だけでなく南京も陥落させてしまいます。その結果、国民は「中華民国に勝利した」と歓喜に湧き、それまで提示していたような和平条件では国民が納得しないと、条件の吊り上げを行いました。しかし、それは国民政府が到底呑めるような内容ではなく、再び回答を保留したことから、近衛首相は所謂「爾後、国民政府を対手とせず」声明を発表し、和平の道を閉ざしてしまったのです。

統制経済への道筋

 国家社会主義に傾倒していったのは軍部だけではありませんでした。革新官僚と呼ばれる官僚たちも同じだったのです。そんな革新官僚たちは、統制経済を推し進めるため、1935年(昭和10年)に設立された国策調査を行なう内閣調査局(後に企画庁に昇格)と1927年(昭和2年)に設立された人的資源と物的資源の統制運用を調査する内閣資源局を合併して、1937年(昭和12年)10月に企画院を設立しました。企画院は、あらゆる経済分野を網羅した統制経済の中枢機関として猛威を振るうことになります。
 近衛首相が「対手とせず」声明を発表し、支那事変が長期化が余儀なくされると、統制経済を強化して総力戦に対応できる国家総動員体制を作り上げる必要に迫られます。そして、近衛内閣が議会に提出したのが「電力国家管理法案」と「国家総動員法」です。まず、電力国家管理法は全国にある民間の電力会社を国家の管理下に置くものです。次に国家総動員法は、国家が国防のために人的資源と物的資源を「勅令」によって統制運用できるというものです。こんなものが議会を通過してしまえば、議会は大幅な制約を受けることになるわけですから、当然政友会や民政党は激しく反発します。しかし、社会大衆党だけは「これこそが我々が目指す社会主義への第一歩だ」と歓迎しました。そして、社会大衆党は近衛内閣へ与党的立場を取ることを宣言するとともに政友会・民政党を批判したのです。国民から圧倒的な支持を集めていた近衛首相を敵に回すと、社会主義政党がますます増長し、危険だということで、政友会・民政党も賛成に回らざるを得なくなってしまいます。そして、濫用は慎むことなど、修正は入りながらも両法案は成立することになります。

きな臭い内閣改造

 近衛首相は、自らの「対手とせず」声明によって、泥沼化した支那事変解決の糸口を見出せず、後悔していました。そこで、内閣改造を行い、事態の打開を図ります。この内閣改造の目玉は、外相・蔵相・陸相の交代です。
 まず、広田弘毅外相を支那事変を泥沼化させた責任者として辞任を迫ります。広田はすでにやる気を失くしていたので、あっさりとこれを受け入れ、後任には予てより中華民国との提携を訴えていた人物であることと、陸軍に睨みを利かせることができる人物であることが評価され、宇垣一成に白羽の矢が立ちました。宇垣は「対中外交の一元化」や「先の声明を取り消すことも厭わない」ことなどを条件に外相就任を受け入れました。
 次に、国家総動員法などを成立させ、統制経済を進めたことで財界から嫌われていた賀屋興宣蔵相に辞任を要求しました。賀屋もこれを受け入れ、後任には三井財閥の中心人物である池田成彬を入閣させました。これによって、財界からの協力を得ようとしたのです。
 ここまでは順調でしたが、最後の陸相交代は難航しました。杉山元陸相にやめる気などまったくなかったのです。そこで、「対手とせず」声明に反対していた多田駿参謀次長と連携し、閑院宮参謀総長に掛け合い、杉山陸相に辞任を要求してもらいました。結局、宮様から言われては杉山陸相も断れず、辞任することになります。後任には板垣征四郎が就任し、次官も梅津美治郎から東条英機に交代しました。近衛首相は、事変不拡大を訴えていた石原莞爾の盟友である板垣なら和平に積極的だろうと考えていました。しかし、次官に据えた東条はバリバリの対中強硬派で、軍政に疎い板垣陸相は傀儡となってしまうのです。

ついにソ連がやってきた

 宇垣外相は、国民政府と極秘に和平工作を進めていきました。未だ交戦中であるにも関わらず、国民政府も宇垣の外相就任を歓迎し、和平交渉に乗り気でした。こうして、宇垣外相が和平工作を進めている中、とんでもない事件が起こります。
 満洲国とソ連の国境線付近に張鼓峰という山がありました。この地域は日本とソ連の間で国境線に認識の違いがあり、国境線は曖昧なまま放置されていたのですが、ソ連が張鼓峰頂上に突然進軍し、軍事施設を作り出したのです。最初、この地域の防衛を任されていた朝鮮軍は、支那事変も収束していないのにソ連と事を荒立てるのは得策ではないと無視していました。しかし、何もしない朝鮮軍に対して、関東軍が「真面目に仕事をしろ!」と文句を言ったことから、朝鮮軍は中央政府にソ連に対して抗議を行うように要請します。その時、ソ連との交渉に当たったのが駐ソ大使だった重光葵でした。しかし、両国の主張は相容れず、交渉は上手くいかなかったばかりか、ソ連はさらに越境してきたのです。こうして朝鮮軍とソ連軍による武力衝突が起こってしまったのです。これが張鼓峰事件です。 かつては機械化が進んだソ連の精鋭部隊に日本軍がフルボッコにされたというのが通説とされていましたが、ソ連崩壊後に公開された資料によると、どうもソ連軍の被害の方が遥かに大きかったということがわかっています。これがソ連の怖ろしいところで、最後まで戦術的には負けていたことを隠し通し、停戦協定でソ連の主張が通ってしまったのです。

梯子を外される宇垣外相

 張鼓峰事件が収束した後も国民政府との和平工作は続けられていましたが、両国の溝はなかなか埋まらず、交渉は滞っていました。そこで、英米との関係も考え、クレーギー英国駐日大使との会談も同時進行することにします。ところが、右翼が「英米に媚びるのは止めろ!」と猛抗議したのです。ワシントン会議後、一方的に英国に憎悪を募らせていた人々も多く、国民も煽られ、会談は上手くいきませんでした。しかし、これ以上に宇垣外相の足を引っ張ったのが近衛首相だったのです。
 国民からも宇垣バッシングが起こると、これを疎ましく思った近衛首相が「興亜院」の設立を打ち出します。興亜院とは、対中外交を扱う首相直属の機関です。つまり、興亜院の設立は外務省の権限を剥奪することを意味します。そして、支那事変解決のために外相となったはずの宇垣の梯子を外す行為でもあったのです。これに激怒した宇垣は外相を辞任してしまいます。しかも、支那事変解決のために動いている人物が別におり、対中外交の一元化も守られていなかったのです。


張鼓峰事件でソ連との交渉に当たった重光葵。
梅津美治郎と共に降伏文書に調印したことで有名。
第一次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロに遭い、右脚を失う大怪我を負いましたが、その後も外交官や外相としてバリバリ働きます。
中でも張鼓峰事件から始まったソ連との因縁は深く、戦後も北方領土問題などでソ連とバチバチやりあうことになります。

 次回、近衛首相が第二、第三の声明を発表します。果たして、その結果は・・・

なかむら ひろしのTwitter

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