第72回もう一度まなぶ日本近代史~やっぱり和平を結ぶ気ねぇだろ!東亜新秩序と近衛三原則~

文:なかむら ひろし

 所謂「対手とせず」声明によって、日中は事実上の国交断絶状態となり、国内では近衛文麿内閣が国家総動員法を制定するなど、戦時体制へと移行していき、和平どころかますます泥沼化が進んでいきました。事変収束の道を見失った近衛内閣は内閣改造を行い、新たに外相となった宇垣一成によって、和平工作が再開されます。ところが、これも上手くいかず、興亜院設立問題が起こると、宇垣外相は辞任し、ふりだしに戻ってしまったのです。

何がしたいのかわからない新たな近衛声明

 「対手とせず」声明と戦争目的が明確ではないことが支那事変が終わらない原因だと(今更ながら)考えた近衛首相は、1938年(昭和13年)11月に第二次近衛声明を発表します。これは戦争目的が「東亜新秩序」の建設であることを謳ったのと同時に、「これに乗ってくれるんなら国民政府と和平交渉を再開してもいいよ」という「対手とせず」声明の緩和も含まれていました。ところが、「東亜新秩序」などとあまりに大きく出すぎてしまったため、落としどころが曖昧で、国内向けに「この戦いには大義名分があるんだ」というぐらいの意味しか持ちませんでした。それどころか、英米との協調をもって、東アジアの秩序を構築していくという旧来のワシントン体制の否定と受け取られ、英米から反感を買うという結果をもたらしています。
 第二次近衛声明が不発に終わりましたが、宇垣外交と同時進行で陸軍主導によって進められていた和平工作に動きがありました。これは影佐禎昭陸軍大佐が国民党のナンバー2で蒋介石の政敵に当たる対日和平派の汪兆銘を重慶から脱出させ、汪兆銘に新政権を樹立させることで和平の実現を目指すというものでした。近衛首相はこれに乗っかり、1938年(昭和13年)12月に第三次近衛声明を発表します。これは「善隣友好・共同防共・経済提携」という所謂「近衛三原則」で、汪兆銘側にきちんと根回ししていました。ところが、一番重要な「撤兵」が声明から抜け落ちていたのです。すでに重慶から脱出し、後戻りなどできない汪兆銘はこれを大変不安視しました。そして、その不安は的中することになってしまうのです。

政権を投げ出す近衛文麿

 近衛内閣の問題は、支那事変だけではありませんでした。この頃、ドイツが日独防共協定の強化を持ちかけていたのです。同協定は、1937年(昭和12年)11月にイタリアも加え、日独伊防共協定に発展しており、英米からは「新秩序」を目指す枢軸三国として警戒されていたこともあり、このドイツの提案に乗るか乗らないかで議論になっていたわけです。それでは、何故ドイツが防共協定強化を求めたのかを見ていきましょう。
 1938年(昭和13年)3月、大ドイツ主義を掲げるドイツは「オーストリアも同じドイツ人の国だから統一しましょう」とオーストリアを併合しました。(ヒトラーもオーストリア出身だったりします)本来、ドイツのオーストリア併合はヴェルサイユ条約で禁止されていました。しかし、対独宥和政策を進めていたネヴィル・チェンバレン英国首相は、オーストリア側も国民投票でドイツに併合されることを望んでいるという結果が出たため、「民族自決」を尊重するべきだと黙認したのです。本当は、勢いに乗るドイツにケンカを売ったら、世界大戦へ発展しかねず、仮に勝てたとしても甚大な被害をもたらすことを恐れていたわけですが。
 すると、調子に乗ったドイツはチェコ・スロバキアにもちょっかいを出します。チェコのズデーテン地方はドイツ人が多数住んでいるという理由で併合を要求したのです。これは、チェコ・スロバキアと同盟関係にあるソ連・フランスへケンカを売っているのと同義です。そこで、ドイツは日本を利用しようとしたのです。防共協定を軍事同盟に発展させ、対象をソ連だけでなく英仏も含めることで、英仏を牽制しようという目論見です。
 当然、日本は「なんでドイツにいいように使われないとあかんのじゃ!」と反対するわけですが、「オーストリアを戦わずして獲得するドイツさんカッケー!」とドイツに傾倒する陸軍は防共協定強化に積極的でした。五相会議でも意見はまったくまとまらず、支那事変だけでなく、防共協定問題も行き詰ってしまったのです。1938年(昭和14年)1月、近衛首相は、待ってましたとばかりに「閣内不一致に陥りました!総辞職しまーす!」と政権を投げ出してしまったのです。

これで第二次世界大戦は回避された・・・のか?

 ドイツがオーストリアだけでなくチェコ・スロバキアにまで手を出そうとすると、チェンバレン首相は焦りました。そこで、チェンバレン首相はやる気満々のドイツを説得するため、1938年(昭和13年)9月にミュンヘン会談を開きました。ここでは「これで最後だぞ」という条件でドイツにチェコ・スロバキアを渡すことが決定され、戦争は回避されます。実は、この会談は英仏独伊の四カ国で行なわれており、チェコ・スロバキアは呼ばれていません。チェコ・スロバキアは、自国の命運を他国に勝手に決められてしまうという憂き目に遭ったわけです。世知辛い話ですが、小国の意見など無視して勝手に話を進めることができるのが大国なのです。また、「こういう時のために国際連盟があるんだろ」という話なのですが、この時には上手く両国の間に入ることができる日本は存在しません。そして、その日本を中華民国に同調して国連から追い出したのがチェコ・スロバキアなどの欧州の小国です。残念ながら日本を追い出して不利益を受けるのは自分たちだったわけです。
 これだけだと「チェコ・スロバキアをドイツに売り渡したチェンバレンって最低だな」と言われそうなので、英国の戦略も書いておきます。まず、世界恐慌で弱っていた英国に乗りに乗ったドイツと即刻開戦するだけの余力はありません。そのため、戦力を整える時間稼ぎが必要だったわけです。また、チェンバレン首相はソ連への警戒心が強く、ドイツが東に進んでソ連と衝突することで対ソ抑止力に利用しようとも考えていました。しかし、このミュンヘン会談でドイツは英仏を完全に舐めてかかるようになり、ドイツを押し付けられたソ連はさらに上手と言える外交を行ない、チェンバレン首相の目論見は結果的に失敗することになります。


石原莞爾と共に満洲事変を引き起こしたことで有名な板垣征四郎。
世界的な指揮者である小澤征爾氏の名前は、この二人の名前から取ったという話です。
部下の意見を聞き、まとめ、それを実行する能力に秀でた人だったのですが、軍政はずぶの素人で陸相としては単なる傀儡に過ぎませんでした。
防共協定強化問題では超理論で推進しようとして、昭和天皇の不興を買う羽目に。
また、本人はアジア主義者で国民政府との和平を望んでいましたが、戦後はA級戦犯として処刑されています。
広く意見を聞くっていうのも考えものですな。

 近衛内閣が倒れ、予てより首相になりたくて仕方がなかった「あの人」が遂に登板します。

なかむら ひろしのTwitter

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