第73回もう一度まなぶ日本近代史~平沼内閣誕生、丸投げされた2つの問題~
泥沼化する支那事変を収束するため、参謀本部が国民政府のナンバー2である汪兆銘と接近します。国民政府から和平派を切り崩し、新政権を樹立することで事態の打破を図ったのです。この動きに乗じた近衛首相は「東亜新秩序」声明を発表し、汪兆銘も首都・重慶から脱出しました。しかし、その後、発表された「近衛三原則」からは汪兆銘の要求していた「撤兵」が削除されており、不安を残す形となってしまいます。また、その頃、ドイツが拡張政策を打ち出し、オーストリアとチェコ・スロバキアを併合し、欧州の方でも緊張が高まっていました。すると、ドイツは英仏を牽制するため、日独伊防共協定強化を求めてきたのです。国内では陸軍を中心とする賛成派と海軍や外務省などを中心とする反対派の大激論が始まります。そして、近衛内閣は閣内不一致に陥ったとし、総辞職してしまったのです。こうして、「支那事変」と「防共協定強化問題」というあまりにも大き過ぎる課題を次の内閣に押し付けることになります。
意外と丸くなってる?!
近衛内閣が総辞職したことで後継首班に選ばれたのは平沼騏一郎枢密院議長でした。平沼といえば、国家主義団体「国本社」の総裁で、右翼勢力の親玉ともいえる人物です。また、政党政治を否定するような発言をするなど、政党嫌いとしても有名です。そのため、元老・西園寺公望から蛇蝎の如く嫌われ、これまで何度も首班候補となるものの、首相にはなれなかったのです。しかし、枢密院議長になった後、平沼は国本社を解散し、目立った行動を取っておらず、西園寺も「あの平沼も実際に首相になれば、無茶なことはしないだろう」と、英米との協調を基本に外交を行なうことを条件に了承しました。また、右翼の親玉ということは、対立する統制派や社会主義者に対する抑止力になるかもしれないという狙いもあったのです。
1939年(昭和14年)1月、平沼内閣が誕生します。閣僚は板垣征四郎陸相、米内光政海相、有田八郎外相など、7名が近衛内閣からの留任でしたが、風見章や有馬頼寧といった革新派は外されています。他には内相に木戸幸一、蔵相に石渡荘太郎を入閣させたほか、政党嫌いな平沼でしたが、政友会・民政党からも入閣させ、議会との調整を図っています。当初は、それまでの言動から議会に睨まれていたものの、平沼首相は議会との協調姿勢を崩さず、政党の方が拍子抜けしてしまうほどでした。そのため、平沼内閣は議会運営に関しては問題なく進めていくことができたのです。
ヒトラー大好き大島くん
平沼内閣を最も悩ませたのはドイツとの防共協定強化問題でした。ドイツは平沼内閣成立直後、再び防共協定を「ソ連だけでなく、英仏をも対象にした軍事同盟」へ強化させる日独伊三国同盟締結を求めてきました。これに対して、板垣陸相は「三国同盟締結によって、国民政府を支援する英ソを牽制することで支那事変解決につながるんだ」とドイツ案に乗ろうと主張するのですが、米内海相と有田外相は「最大貿易国である英米にケンカを売るなんて損しかしない」と反対する基本的な流れは以前と同じです。しかし、これでは近衛内閣から何も前進しないということで、有田外相が「三国同盟の対象はソ連を主としたものだが、状況によっては英仏も対象となり得ることもある」という妥協案を打ち出します。この妥協案は五相会議を通過し、独伊側へ伝えられるはずでした。ところが、大島浩駐独大使と白鳥敏夫駐伊大使が「これでは相手が納得しない」と修正を求めたことで、「英仏も対象に含めることは認めるが、武力援助を行なうかどうかは状況による」という内容に変更されています。
平沼首相がこれまでの経緯を昭和天皇に報告した際、昭和天皇は「これ以上内容を変更しないこと」「大島・白鳥両大使が勝手なことをした場合、両大使を本国に呼び戻し、交渉を打ち切ること」を約束させ、念書まで書かせています。しかし、大島・白鳥両大使は「英仏も対象に含み、武力援助もする」と独伊に対して、明言してしまったのです。本来なら二人を本国に呼び戻し、独伊との交渉も打ち切らねばならないところですが、平沼首相は陸軍の反発に遭い、有耶無耶にしてしまいました。こうして、三国同盟問題は先送りされることになります。
海軍だってケンカ売ってますやん
米内海相・山本五十六次官・井上成美軍務局長という海軍の首脳陣は、三国同盟に反対していましたが、決して海軍が一枚岩というわけではありませんでした。艦隊派と呼ばれる海軍軍縮条約に反対していた勢力は反英米を訴え、三国同盟にも賛成していたのです。
そうした状況の中、1939年(昭和14年)2月に海軍は海南島を占領しています。海南島は香港の南、ベトナムとフィリピンの間にある中華民国領の島です。海南島占領は、援蒋(蒋介石への援助)ルートの遮断と同時に来るべき南方進出、「南進」のための拠点とするつもりだったわけです。これは東南アジアを植民地とする英米にケンカを売るのと同義で、当然英米から反感を買うことになってしまいます。
実は、この海南島占領は米内海相が主導したもので、彼が主張する英米との協調と矛盾しているように思えますが、第二次上海事変の時のように上海や海南島で孤立している海軍部隊の救出を目的として主導していたのです。しかし、海南島占領は「南進」の足がかりであることは米内海相も理解していましたし、英米から反感を買うことになることも理解していたでしょう。部下思いの上官ではあるんですが・・・
理論よりも軍事力だよな!
一方、重慶を脱出し、ハノイに移った汪兆銘は和平派を切り崩し、新政権を樹立することを目指しました。しかし、汪兆銘の元には誰も集まりませんでした。日本と交戦中の中華民国では親日=国賊という扱いを受けますし、いくら素晴らしい理想を掲げたところで、蒋介石や毛沢東のように軍事力を持たない汪兆銘には誰も呼応しようとしなかったのです。それどころか、汪兆銘の元に現れたのは国民政府の暗殺団でした。
そこで、参謀本部の影佐禎昭大佐はこのままでは危ないと、汪兆銘を日本占領下の上海へと脱出させます。上海に着いた汪兆銘は「新政権では日中和平に全力を尽くすこと」「和平が成功したら自分は下野すること」などを表明しました。その後、汪兆銘は来日し、平沼首相など政府要人と会談を行ないます。そこで、日中和平のためには日本側が「中華民国の主権と独立を尊重することが必要だ」と訴えました。つまり、「近衛三原則」+「撤兵」を必ず守れということです。こうして、汪兆銘は南京に移り、新政権を樹立することになります。しかし、平沼内閣は汪兆銘の和平派切り崩し工作が上手くいっていないことに不安を感じ、やはり蒋介石との交渉が必要なのではないかと考えるようになっており、汪兆銘の要求に対して、明確な回答をすることはありませんでした。
日独伊三国同盟締結のために暴走しまくる大島浩。
本編では省きましたが、陸軍中央と結託して、東郷茂徳を退け、駐独大使に昇格しています。
ドイツ人以上のドイツ人と呼ばれ、「ヒトラー最高や!」と最悪な独裁者に心酔しまくりでした。
この人の場合、日本を陥れようとしているスパイではなく、善意でやってることが怖ろしい。
次回、再び北の大国との武力衝突が発生します。みんな大好き、作戦の(荒ぶる)神様も登場するよ!