第74回もう一度まなぶ日本近代史~ノモンハン事件、今度はただの国境紛争では終わらない~

文:なかむら ひろし

 「支那事変」も「防共協定強化問題」も解決しないまま、政権を投げ出した近衛文麿に代わって、平沼騏一郎枢密院議長が後継首班となりました。しかし、平沼内閣も陸軍や暴走する現地大使に振り回される形で、防共協定強化問題を先送りにします。また、近衛内閣が進めていた汪兆銘新政権樹立による和平工作も汪兆銘に呼応する勢力が出てこなかったことから、平沼内閣はやはり蒋介石との交渉が必要だと考えるようになり、なかなか進展を見せないのでした。

再びソ連と対決

 1939年(昭和14年)5月、平沼内閣が近衛内閣の負の遺産に四苦八苦している中、再びソ連と武力衝突が起こっています。ノモンハン事件です。
 これは、ソ連の傀儡国家であるモンゴル人民共和国軍がハルハ河を渡って、進出したことで始まります。モンゴルと満洲国の国境は、張鼓峰事件の時のように日ソ間で食い違いがあり、日本はハルハ河を国境としていましたが、ソ連はその北方のノモンハン付近を国境としていました。そこで、満洲とモンゴルの間で武力紛争が起こります。
 実はこの事件の直前、関東軍は『満ソ国境紛争処理要綱』を発表していました。これは「国境が曖昧な地域に関しては現場の司令官が自主的に国境線を決め、紛争が起こった場合は実力行使で追い払う」という極めて危ない方針でした。日ソ間での国境紛争は、武力衝突に至っていないものを含めると頻繁に起こっており、特に張鼓峰事件での参謀本部の対応に不満を抱いていた辻政信関東軍作戦参謀が発案したと言われています。
 関東軍は、この『満ソ国境紛争処理要綱』を実行しようと、ハルハ河へ派兵し、モンゴル軍を追い払いました。しかし、そこへソ連軍が現れたのです。関東軍の前に現れたソ連軍は、戦車や装甲車を中心とした機械化部隊でした。それに対して、関東軍は歩兵が中心です。関東軍は奮戦するも多くの死傷者を出し、敗走することになります。しかし、戦闘機による空中戦ではソ連軍を圧倒していたことやソ連軍も撤退していったことから、決して負け戦とは考えていませんでした。この時点では、まだまだソ連軍を過小評価していたのです。
 また、関東軍も参謀本部も不拡大方針で、ソ連は欧州でドイツと対峙しているし、これ以上の戦力をこちらに向けてくることはないだろうと、事件は両軍の撤退で収束したと思っていました。しかし、事件はまだまだ終わっていなかったのです。

本当の戦いはここから

 ソ連は戦力を大幅に増員し、満洲の国境警備隊への攻撃を開始すると、国境線を越えた攻撃も行なうようになります。情けない戦いをしたとして、司令官も交代させる念の入れようです。基本的には不拡大方針だった関東軍も「こちらもそれなりの戦力を動員してソ連軍を殲滅してしまおう!」と陸軍中央へ報告します。参謀本部は「そんな無意味な戦いはよせ!」と事件拡大を望みませんでしたが、板垣征四郎陸相が「現場の人間に任せておけばいいんじゃねえの?」と言ったことから、関東軍の要求は通り、第二次ノモンハン事件へと拡大することになります。
 相変わらず、戦闘機による空中戦では強さを見せ、ソ連軍戦闘機を次々と撃墜していきます。しかし、物量で押すソ連軍の前に関東軍航空部隊はヘトヘトです。そこで、辻作戦参謀がソ連軍航空部隊の拠点であるタムスク飛行場に奇襲を仕掛ける所謂「タムスク爆撃」を行ないます。これによって、ソ連軍は大打撃を受けることになるのですが、この作戦には大きな問題がありました。タムスク爆撃は局地戦を超えた越境攻撃で、関東軍の独断で行なわれていたのです。これは明らかな統帥権侵害で、関東軍と参謀本部は大ゲンカです。その結果、大本営から関東軍に対して戦闘範囲を限定し、拠点への爆撃を禁止する命令が下されるのですが、ハルハ河のソ連軍を殲滅することが関東軍の目的ですから、特に意味を持つわけではありませんでした。
 陸戦の方では、関東軍も戦車部隊を投入し、ソ連軍と戦いました。歩兵隊も戦車相手に火炎瓶で立ち向かうという肉薄作戦を決行し、多くのソ連軍戦車を破壊します。序盤は優位に戦いを進めていましたが、物量で押してくるソ連軍相手に次第に戦況は悪化していきます。粘りに粘った関東軍もソ連軍の猛攻によって、ソ蒙が主張する国境線の外まで押し戻されてしまいます。関東軍は更なる増援を送って、戦いを続けようとしますが、ソ連軍がそれ以上の進撃を行なわなかったことから、大本営は関東軍の要求を退け、停戦交渉を行なうことにします。こうして、1939年(昭和14年)9月にノモンハン事件は収束しました。

国境線なんてどうでもいい話なんです

 かつてノモンハン事件は、1万8千人の死傷者を出し、ソ連にフルボッコにされたとされていましたが、ソ連崩壊後の資料ではソ連は日本を上回る2万5千人の死傷者を出していたことが判明しています。さらに停戦協定でもソ蒙の要求通りに国境が画定するという張鼓峰事件と同じような結末になってしまいました。
 軍事的には日本の大敗ではなかったわけですが、ここからが最悪です。別に国境線が少しずれたことなどではありません。当時の日本はソ連に大敗したと思っていますから、陸軍が主張していた「北進論」が下火になってしまったのです。これによって、「南進論」が強まり、英米との対立を深めていくことになります。また、独走した関東軍は何の処分を受けることもなく、統制の問題は何ひとつ解決の方向には進みませんでした。さらにノモンハン事件で得たはずの教訓は活かされず、近代戦への対応もなかなか進まなかったのです。
 一方、関東軍相手に甚大な被害を出したソ連軍もこれ以降、守りを固めるだけで日本に手を出してこなくなります。欧州でドイツの脅威が迫る中、どうしてわざわざ日本に手を出してきたのでしょう?その辺はまた次回ということにしましょう。


「石原だって、手柄を立てて出世したんだ、俺だって!」
「やめろ、辻ーン!」
という『機動戦士ガンダム』第1話のシーンをもじったネタで有名な辻政信。
それなりに有能な軍人だったようで、当時は「作戦の神様」と呼ばれ、重宝されていました。
ただ、神は神でも荒ぶる神で、取り扱いには十分な注意が必要とも言われていました。
また、やらかした部下に責任を押し付けて自決を強要したり、終戦時に戦犯を免れるために海外で潜伏生活を続けるなど、立ち振る舞いの酷さから現在での評価は微妙な模様。

 次回、日本がノモンハンで激戦を繰り広げている中、ドイツがとんでもない行動に出ていたことが明らかになります。

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