第4回もう一度まなぶ日本近代史~ペリー来航とクリミア戦争~
アメリカの野望
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが軍艦4隻を率いて、浦賀に来航(相変わらず玄関ではなく窓から入ろうとするアメリカ)するわけですが、ここではアメリカが日本にやって来た目的を書いていくことにしましょう。
アメリカは、清との貿易や捕鯨のための寄港地として日本に開国を求めるようになりました。前回やったようにビッドルは失敗してしまうわけですが、1848年にメキシコとの米墨戦争に勝利し、カリフォルニア(西海岸)を手に入れると、同時期に同地方で砂金が発見されたことから急速に西部の開拓が進んでいきました。(ゴールドラッシュ)そして、同時に多くの先住民族が民族浄化の憂き目に遭うのです・・・
西部の開拓が進むと、太平洋進出を目論むようになります。太平洋を横断しての清との貿易、また北太平洋での捕鯨が盛んになり、どうしても日本という寄港地が欲しくなったわけです。
その頃、欧州では
ペリー来航と同じ年、ヨーロッパではクリミア戦争が勃発していました。「クリミアの天使」ことナイチンゲールが活躍したことで有名な戦争です。クリミア戦争についてはあまり詳しく書きませんが、実は遠いヨーロッパで始まった戦争が日本に大きく影響を及ぼしているのです。
事の発端は、ヨーロッパの火薬庫・バルカン半島です。ギリシャやエジプトがオスマン帝国からの独立を目指して紛争が起こるのですが、不凍港獲得を目論むロシアがこれに介入したところからいろいろあって、ロシアとオスマン帝国がクリミア半島で戦争を始めるのです。ロシアの南下に危機感を持ったイギリスやフランスはオスマン帝国につき、ロシアをリンチにします。
1854年にはペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦が行われています。英仏連合がカムチャッカ半島にあるロシアの要塞を攻撃したのです。バルカン半島で発生した火花が日本近海まで飛んできているのです。
ちょうどよかったアメリカ
ペリー来航後、ロシア使節エフィム・プチャーチンが英仏の艦隊から逃げながら長崎に来航し、日本に開国を要求したのは、日本がイギリスにつくことを恐れたからなのです。また、イギリスはロシア攻撃の途中で日本に寄り、日本がロシアに奪われないように開国を要求しています。
ペリーが来航するまでの日本は、英仏につくかロシアにつくかの二択を迫られていたわけですが、クリミア戦争に無関係かつそこそこの強国であったアメリカはちょうどよかったのです。(申し訳ありませんがオランダは雑魚すぎて話になりません)
ペリーの砲艦外交?
ビッドルの際は、「事を荒立てるな」という指示が出ていたこともあり、情けない形で失敗に終わったという経験から、ペリーが強気に出ていたことは事実です。民衆レベルではペリーの黒船に怯えたことでしょう。
しかし、幕末の知識人は我々が思った以上に国際情勢に詳しかったようで、少ない情報からその裏を読む能力にも優れていたようです。日本の開国は、脅されて無理にというよりも好機と捉えていたかもしれません。
意外と優しいペリーさん。黒船に侵入した吉田松陰を評価し、処罰しないようにと書簡を送っています。
次回は、ペリー来航後の日本について書いていきます。水野忠邦の後を継いだ若き老中首座・阿部正弘の苦悩をお送りします。