第75回もう一度まなぶ日本近代史~欧洲ノ天地ハ複雑怪奇~

文:なかむら ひろし

 平沼騏一郎内閣が「支那事変」「三国同盟」という2つの問題を抱える中、満蒙の国境紛争であるノモンハン事件が勃発し、関東軍とソ連軍による激戦が繰り広げられました。その結果、両国ともに甚大な被害を出し、ソ連がこれ以降日本に手を出すことがなくなった一方、日本もソ連に備えるべきだという「北進論」が下火になり、逆に「南進論」が盛り上がるという最悪な道を進むことになります。このノモンハン事件の間、他にも様々な事件が起こっています。

イギリス租界を封鎖せよ!

 支那事変によって、日本軍の占領地が拡大したことで、中国権益を脅かされるのではないかというイギリスと支那事変がなかなか収束しないのは、英米が国民政府を援助しているからだとする日本との関係は悪化していく一方でした。そんな中、1939年(昭和14年)6月に起こったのが天津英租界封鎖事件です。
 同年4月、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府によって任命された海関(税関)監督が天津の英国租界で暗殺されるという事件が起こりました。英国租界内ではイギリスが行政権や警察権を掌握しているので、日本はイギリスに犯人の引渡しを要求するわけですが、イギリス側はこれを拒否したのです。そこで、陸軍は英仏租界の交通を制限し、天津英国租界を封鎖してしまいました。
 何故ここまで踏み切ったのかという理由は大きく2つに分けられます。予てより抗日ゲリラに苦しめられ、何をされても英仏租界に逃げられてしまえば、日本は手を出せないという状況から、英仏租界が抗日活動の拠点となっていたというのが1つです。そして、もう1つは経済的な理由があります。陸軍は中華民国臨時政府に円を後ろ盾とした通貨を発行させ、通貨を統制することによって、華北経済を支配し、国民政府から切り離そうとしていました。しかし、英仏租界内では、その強制力はなく、ポンドを後ろ盾とした通貨が流通していますから、租界外でも通貨を統制することは困難です。つまり、華北経済を支配するのに英仏租界が邪魔だったわけです。
 ところが、日英ともに事を荒立てる気はなく、話し合いによって、解決の糸口を探ろうとしました。そこで同年7月、2度に渡って行なわれたのが有田八郎外相とロバート・クレーギー駐日英国大使による有田・クレーギー会談です。日本は、この会談でイギリスから譲歩を勝ち取ります。イギリスは「日本と国民政府が交戦状態にあることを認め、日本を害し国民政府を利するような行為を排除する必要を認める」という協定が成立したことで事件は決着しました。イギリスはドイツが猛威を振るう欧州情勢の対応に手一杯だったのです。

アメリカ様は許しません

 反英感情が高まっていた日本では、有田・クレーギー会談でイギリスから譲歩を引き出せたことで、「外交的大勝利」と大きく盛り上がっていました。しかし、これは同時にアメリカの怒りを買うことになってしまいます。会談のわずか4日後、アメリカは一方的に日米通商航海条約の破棄を通告してきたのです。
 日米通商航海条約は、幕末に結ばれた日米修好通商条約を陸奥宗光や小村寿太郎らの尽力によって平等・対等な内容に改められた最初の通商条約です。この条約が破棄されると、アメリカは合法的に対日貿易を制限・停止し、経済制裁を行なうことができるようになります。支那事変勃発後、日本は原油・くず鉄・機械・飛行機原料などの生産財の4割を輸入に依存しており、その多くはアメリカから輸入していたことから、日本にとっては死活問題です。
 世界恐慌後、アメリカ世論は孤立主義を強めていましたが、支那事変が勃発するとアメリカ政府が「日本が中国権益を独り占めしようとしている」と喧伝したことで、アメリカ世論は対日感情が悪化していきました。さらに天津英租界封鎖事件が起こると、「日本人はイギリス人女性まで丸裸にして取り調べを行なっている」などという噂まで流され、アメリカの対日感情の悪化は加速していったのです。
 この後、日米通商航海条約の失効までの6ヶ月の間、新たな通商条約を締結するように会談が行なわれましたが、交渉は難航し、1940年(昭和15年)に失効してしまいます。この段階でアメリカは完全に日本とやり合う気であったのに対し、日本は「アメリカは中国権益を持っていないので、そこまで本気じゃないだろう」と甘く見ていたのです。

欧洲の天地は複雑怪奇

 日本がソ連だけでなく、英米とも揉め事を起こしている間、ドイツとソ連の間でとんでもない条約が結ばれます。独ソ不可侵条約です。これは、事実上の軍事同盟です。一体、何があったのでしょうか?
 ドイツはオーストリア、チェコ・スロバキアの半分を併合し、東欧に勢力を伸ばしていきましたが、世界大戦への発展を恐れる英仏が「これで終わりにしてくれ」という条件付きでこれを黙認したという話は以前しました。しかし、英仏を完全にナメきったドイツは残りのチェコ・スロバキアやポーランドへまでちょっかいを出します。しかし、英仏は「それ以上やったら戦争だ」と言いながらも実際にはポーランドと隣接するソ連に押し付けようとしていました。ソ連は英仏の対応を見て、「ドイツを押し付けて、共倒れを狙っているに違いない」と読み、ドイツに接近したのです。ドイツも日本から三国同盟の回答をなかなか得られず、日本抜きで独伊同盟を結ぶなど焦っていたこともあり、ソ連と結託することにします。この条約を強引に一言にまとめると、ドイツとソ連で東欧諸国を山分けしようというものでした。
 当時、ヒトラーとスターリンは犬猿の仲と言われており、独ソ不可侵条約の締結は世界を驚愕させました。そして、何よりもびっくりして引っくり返ったのは日本です。天津英租界封鎖事件で反英感情が高まった日本では再び三国同盟問題が盛り上がり、賛成派と反対派がバチバチやり合っていたのですが、独ソが結び付いたことで、三国同盟交渉の打ち切りが決定されます。こうして、三国同盟問題は勝手に立ち消えてくれたのですが、平沼内閣は外交の方向性を失い総辞職してしまいます。
 ただ、この独ソ不可侵条約はヒトラーとスターリンががっちり手を握り合ったわけではなく、あくまでも時間稼ぎという利害関係が一致しただけでした。また、ソ連が日本に手を出してきたのは、ドイツに後ろから刺される心配がないことを確信していたからでしょう。ただ、関東軍が思った以上に強かったこともあり、その後は欧州に集中していくことになります。


司法官僚出身で法曹界で強い権力を持ち、国本社の創設者で右翼のボス的存在でもある平沼騏一郎。
総辞職の際に言い放った「欧洲の天地は複雑怪奇」はあまりにも有名。
また、西園寺公望とは犬猿の仲で、悪口ばっかり言ってました。
ちなみに平沼赳夫氏はこの人の養子だったりします。
戦後はA級戦犯として終身刑、獄中死しています。
ドイツ・ソ連嫌いでアメリカとの関係を修復しようと尽力してたんですけどね。

 次回、遂に第二次世界大戦が勃発します。ドイツも酷いがソ連も大概やで。

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