第5回もう一度まなぶ日本近代史~日本開国~

文:なかむら ひろし

 1853年、ペリーが浦賀に来航すると、幕府はそれまでの慣習を破り、フィルモア大統領の国書を受け取ると、1年後に返答することを約束します。
 前回書き忘れましたが、ペリーは太平洋を横断して日本に来たわけではありません。筆者もそうでしたが、結構勘違いしている方が多いと思うので補足しておきます。
 ペリーは、アメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから出航し、南アフリカの喜望峰、セイロン島などを経由して日本に来ています。彼は、東インド艦隊司令長官ですから当然なのかもしれません。
 ちなみに東インドというのは、インドの東部という意味ではありません。最初、コロンブスがアメリカをインドと勘違いしたことに由来します。欧州から見て東にある本当のインドが東インド、欧州から見て西にあるアメリカを西インドと呼んでいました。アメリカの原住民をインディアン(インド人)と呼ぶのもこのためで、現在も中米のパナマなどの島々は西インド諸島と呼ばれています。

 前置きが長くなりましたが、今回はペリー来航後の幕府について書いていきます。

ついに開国

 水野忠邦の失脚後、幕府の最高責任者となったのが阿部正弘でした。25歳という若さで老中に就任するという、相撲の遠藤ばりのスピード出世で頭角を現します。
 ペリー来航以前から薩摩の島津斉彬や水戸の徳川斉昭といった雄藩(地方行政改革に成功し力のある藩)の大名と親交が深く、アヘン戦争後の緊迫した状況の中で意見を求めたりしています。徳川斉昭には海防参与を要請し、国防問題に当たらせました。さらに朝廷や一般人にも広く意見を求め、挙国一致で国難に立ち向かおうとするのです。
 また、国防強化のために東京湾に台場と呼ばれる砲台(フジテレビのあるお台場がその一部)を築いたり、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万次郎など身分にとらわれず、優秀な人材を登用しています。
 しかし、有効な手立てがないまま、1854年1月にペリーが再び浦賀に来航します。(1年後ではなく年が明けた途端、やっぱり窓から入ってくるアメリカ)そこで穏便に収拾する形で、日米和親条約を締結し、200年にわたる鎖国に終止符を打つのです。

日米和親条約

 ここでは、日米和親条約の中身について見ていきましょう。

1.燃料や水、食料を供給する
2.遭難船やその乗組員を救助する
3.下田、箱館の2港を開き、下田に領事の駐在を認める
4.片務的最恵国待遇を与える

 アヘン戦争でも出てきた最恵国待遇とは、日本がアメリカ以外の国と条約を結んだ時、アメリカよりも有利な条件が含まれていた場合、自動的にアメリカもその条件に更新されるというものです。問題なのは、アメリカにのみ適用されるという点です。現在では、相互に最恵国待遇が与えられます。
 不平等条約といえば、この次に結ばれる条約を指すことが多いのですが、日米和親条約の中にも不平等な条項は含まれていたのです。ただ、これは仕方がないと言えば、仕方がありません。例えば、アメリカがイギリスと条約を結んだ際、日本との条項がイギリスと同等の内容に更新されてしまうと、イギリスは「アメリカさんは、世界最強の我が国を弱小日本と同じ扱いにするんですね」と激怒することは間違いありません。

安政の改革

 阿部正弘は、国難に立ち向かう際に様々な人に意見を求めたいうことを書きましたが、これが自身の首を絞めることにもなります。それまで政治に口を出せなかった人たちが好機と見て、どんどん政治に介入してくることになるのです。結果的に幕府滅亡の一里塚を築いたということになります。
 開国に反対していた徳川斉昭は、日米和親条約が締結されると、海防参与を辞任し、へそを曲げてしまいます。正弘は、徳川斉昭が要求した開国派の老中をクビにすることを実行し、ご機嫌をとりますが、今度は開国派からの非難を浴びることになり、老中首座を辞任し後任に堀田正睦を立て、両派の融和を図ります。
 老中首座を辞した正弘でしたが、その実権はまだその手中にありました。正弘は、首座時代から様々な改革に着手しており、首座から退いた後も改革を続けていきます。その一連の改革は、安政の改革と呼ばれます。ここでは、その一部を紹介しておきます。

1.優秀な人材の登用
 永井尚志、高島秋帆、そして、勝海舟などを登用しています。正弘の人材発掘能力の高さは異常です。

2.講武所、長崎海軍伝習所、蕃書調所の設立
 講武所、長崎海軍伝習所は洋式軍事訓練所で後に日本陸軍、日本海軍へと発展していきます。蕃書調所は、洋学の教育や洋書の翻訳などを行う機関で、東京大学の前身となっています。

3.大船建造の禁の解禁
 それまでは反乱防止のために、武家諸法度で大船の建造は禁止されていましたが、海軍力強化のためにこれを緩和しました。

阿部正弘の最期

 内から外から様々な圧力を受けながらも改革を進めてきた阿部正弘でしたが、その最期は過労死同然というものでした。39歳という若さでした。
 正弘の政治の特徴は、慣習にとらわれない能力第一主義というところでしょうか。それまで蚊帳の外だった人たちを政治に介入させたことが幕府滅亡につながったのは事実ですが、幕府の人材の枯渇は明らかになりますし、彼の協調路線が彼の死によって崩れて、幕末の動乱に突入していくわけです。

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口うるさい大奥を黙らせるほどのイケメンだったといわれる正弘の最期。「燃えたよ・・・まっ白に・・・燃えつきた・・・まっ白な灰に・・・」

 次回は、ロシアについて少し書いた後、「ひこにゃん」で有名なあの人が登場します。

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