第76回もう一度まなぶ日本近代史~第二次世界大戦勃発~
支那事変の泥沼化に伴い英米との関係が悪化していく中、天津英租界封鎖事件が起こり、国内は反英ムードに包まれましたが、有田・クレーギー会談でイギリスから譲歩を引き出し、中国大陸の現状を承認させることに成功します。しかし、その直後にイギリスの対応に不満を抱いたアメリカが一方的に日米通商航海条約の破棄を言い渡してきたのです。一方、ノモンハンでも関東軍とソ連軍による大激戦が繰り広げられており、親独派勢力は早期の三国同盟締結を求め、反対派との議論は大紛糾します。そんな中、独ソ不可侵条約の締結が発表され、平沼騏一郎内閣は外交の方向性を見失い総辞職したのでした。
陸相は畑か梅津
平沼内閣が倒れ、後継首班として名前が挙がったのは広田弘毅でした。しかし、陸軍が反対したことや広田自身が拒絶したこともあり、近衛文麿内閣で蔵相を務めた三井財閥のボスである池田成彬の名前が挙がります。元老西園寺公望も異論はなかったようでしたが、ひとつだけ条件を付けました。それは、近衛に池田を首班とすることを納得させた上で、近衛の責任で池田を推すというものでした。ところが、近衛は親英米派である池田とは考え方が合わなかったことや責任を押し付けられることを嫌い、ここでも逃げ出してしまったのです。
そんな中、白羽の矢が立ったのが陸軍が推す阿部信行陸軍大将でした。当初、湯浅倉平内府らは「内閣が倒れるたびに陸軍の推す人物が首相となるのはよくない」と反対していましたが、池田内閣案が潰えると阿部内閣案で話が進められることになります。阿部は所謂「皇道派」や「統制派」に属しておらず、良識派と見られていたこともあり、西園寺も同意したことで阿部内閣が誕生することになります。
組閣が進められる中、陸相は三長官会議によって、多田駿中将が内定していました。しかし、昭和天皇が「陸相は畑俊六か梅津美治郎じゃないとダメだ」と仰ったのです。これまで「憲法に則った政治を行なうよう」「英米との協調を優先するよう」など大まかな指示はあったものの、人事にまで介入されたのは前代未聞のことでした。陸軍の度重なる規律を無視した独走がこの立憲主義に違反するような発言に繋がったのでしょう。こうして、陸相は畑俊六陸軍大将が就任することになり、崩壊していた陸軍の規律回復が期待されることになります。
一方、梅津美治郎陸軍中将は陸相よりもある意味では重要な役割が与えられます。関東軍司令官です。梅津により関東軍の規律は回復し、以後問題を起こさなくなります。また、ソ連への警戒も怠ることなく、ノモンハン事件以降、ソ連は日本に手を出してくることはありませんでした。あの日までは・・・
第二次世界大戦勃発
1939年(昭和14年)9月1日、独ソ不可侵条約が締結されてから僅か9日後、ドイツはポーランドへの侵攻を開始します。ヒトラーは、これまで宥和政策を続けてきた英仏を完全になめ切っており、どうせ今回も黙認されるだろうと考えていました。ところが、9月3日に英仏はポーランドとの相互援助条約に基づき、ドイツに宣戦布告したのです。こうして、第二次世界大戦が始まりました。
一方、ソ連はドイツのポーランド侵攻に合わせてノモンハンから兵を引き上げます。ノモンハンでソ連軍が追撃を止め、早期に停戦協定が締結されたのはこのためでした。ソ連は、ポーランドとの相互援助条約を破棄し、独ソ不可侵条約に基づいて、ポーランドへの侵攻を開始します。ドイツとソ連の挟み撃ちに遭ったポーランドはあっという間に分割され、地図上から姿を消すことになってしまいます。その後、ソ連はフィンランドの一部、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国を併合することになるのですが、英仏は何故かソ連には宣戦布告せず、国際連盟から除名しただけでした。
また、アメリカは欧州大戦に対して中立を宣言しています。フランクリン・ルーズベルト米国大統領は孤立主義を謳い、欧州の厄介事には関与しないと国民に宣言していますから当然です。しかし、英仏に対して、可能な限りの援助を行なうことを約束しており、実はやる気満々なのであります。
アベノミクスで物価上昇
阿部内閣が発足した直後に第二次世界大戦が勃発したわけですが、阿部内閣は「欧州大戦には介入せず、支那事変解決へ集中します」という声明を発表します。ドイツに独ソ不可侵条約締結という裏切りに遭った親独派はこれに反発することはなく、阿部内閣は良識派らしい滑り出しを見せました。ところが、その後の政策で一気に国民から反感を買うことになってしまいます。
支那事変勃発から国内の物資は不足していました。そんな状況の中で、第二次世界大戦が勃発したため、物資の獲得が益々厳しくなっていきました。カネはあってもモノがない、インフレーションが懸念される中で、阿部内閣は価格等統制令という勅令を出します。これは商品価格を1939年(昭和14年)9月18日の水準で固定するというものでした。インフレーションによる物価上昇を抑えるため、公定価格を設定したわけですが、賃金が上昇すれば、国民がモノを買いたがり、物価上昇に繋がるので、賃金統制令も出されて、賃金まで公定されることになります。しかし、公定価格は市場価格よりも当然安くなるので、商人は市場に流さず、裏で取引を行なうようになってしまいます。そのため、国民は闇市で商品を買うことになるわけですが、賃金も公定されているため、国民の生活は困窮することになります。
また、政府は当初、主要品目のみ公定価格を設定するつもりでしたが、生産者も公定価格の設定されているモノを作らないようになり、公定価格の設定されていないモノを作るようになります。その結果、政府はあらゆる品目に公定価格を設定せざるを得なくなってしまいました。メーカーが酒税を抑えるために発泡酒を作ったら、政府が発泡酒にもビールと同じ酒税をかけ、今度はメーカーが第3のビールを作るというような流れです。
さらに国民生活を苦しめたのが米の凶作です。米価の高騰を見越した米問屋が米の流通をストップさせてしまったのです。そこで、阿部内閣は米が流通するように米価のみを引き上げることにしたわけですが、米の値上がりは他の商品にも影響するわけですし、米不足自体が解決したわけでもなく、インフレーションはさらに加速することになったのです。
平沼内閣の後を継いだ阿部信行。
日露戦争、シベリア出兵で従軍したものの、実戦には参加しなかったことから「戦わない将軍」と呼ばれました。
事務能力に秀でた軍事官僚で宇垣一成陸相時代、次官となっています。
阿部内閣は陸軍にしか支持基盤がない上、早くも国民から反発を買ってしまうわけですが・・・
次回、外務省からも総すかんを食らう阿部内閣・・・こりゃ短命だわ。