第77回もう一度まなぶ日本近代史~米内内閣の誕生と自壊する議会~
独ソ中立条約の締結によって、平沼騏一郎首相が政権を投げ出すと、後継首班となったのは陸軍の推す阿部信行でした。阿部内閣成立直後、ドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦が勃発しますが、阿部内閣は「欧州大戦への不介入」を宣言します。この判断は良かったのですが、長引く支那事変と第二次世界大戦の勃発により、国内のインフレーション化が進むことを懸念し、「価格等統制令」「賃金統制令」を出したことで、逆にインフレーションが加速し、国民生活を苦しめることになり、早くも国民から反感を買ってしまうことになってしまいます。
国際法の権威、野村外相の挫折
阿部内閣は成立当初、阿部首相が外相も兼任していましたが、第二次世界大戦が勃発すると、その道のプロを外相に置かざるを得なくなります。そこで選ばれたのが野村吉三郎海軍大将です。野村は駐米大使館付駐在武官を務めたほか、パリ講和会議・ワシントン海軍軍縮会議にも出席しており、海外経験が豊富で国際法にも精通していた点が評価されました。
そんな野村外相はいきなり外務省とのごたごたに巻き込まれてしまいます。「貿易省問題」です。大蔵・商工・外務の三省から貿易に関する行政権を取り上げ、「貿易省」として統合しようという、陸軍が予てより主張していた案なのですが、すでに「興亜院問題」で権限を縮小されている外務省が猛反発することは自明です。それにも関わらず、阿部内閣はろくな議論も根回しも行なわないまま、貿易省設置を閣議決定してしまったのです。これには外務省が激怒し、ストライキにまで発展してしまいます。政府は議会から同意を得ることができず、肝心の陸軍ですらそっぽを向くという始末です。結局、貿易省設置の閣議決定は取り下げられ、外務省に屈する形で問題は収束するわけですが、これが阿部内閣に大きな傷を残すことになります。
出だしでつまづいてしまった野村外相でしたが、知米派かつフランクリン・ルーズベルト米国大統領と親交のあった彼の使命はアメリカとの関係改善です。野村外相はジョセフ・グルー駐日大使と会談を行い、失効が迫る日米通商航海条約に代わる暫定協定締結を求めます。しかし、いくら親日家のグルー大使も本国の「中国大陸から手を引かないと無理」という命令には逆らうことはできません。結局、野村・グルー会談は決裂し、野村外相は結果を残すことができませんでした。彼が活躍するのはまだ先のお話となります。
ついに登板!海軍のエース
経済政策だけでなく、外務省には屈するわ、日米交渉も失敗に終わるわと、阿部内閣の権威は早くも失墜してしまいました。議会に阿部内閣を支持する者はおらず、不信任案が提出されます。阿部首相は議会を解散し、再起を図ろうとしますが、唯一の支持基盤であった陸軍にも見放され、総辞職を求められるという有様です。陸軍としても国民の信任がなくなった阿部内閣を擁護することはできなかったわけです。こうして、阿部内閣は総辞職し、わずか4ヶ月で倒れてしまいました。
阿部内閣の雲行きが怪しくなっていった頃、湯浅倉平内大臣は早くも後継首班奏薦に動き出します。まず、近衛文麿枢密院議長に打診しますが、近衛がこれを断ったため、米内光政海軍大将に白羽の矢が立ちます。親英米派で三国同盟に反対していた米内の登板は昭和天皇も望んでいたこともあり、話はとんとん拍子に進んでいきました。米内自身は引き受けるつもりはなかったのですが、いざ宮中に参内し、大命降下を受けると、とても断ることなどできなかったということでした。
1940年(昭和15年)1月、米内内閣が誕生します。閣僚は、内閣書記官長に石渡荘太郎、外相に有田八郎という米内と同じく三国同盟に反対していた人物を選んだ他、政党から4名を入閣させ、陸海軍大臣は畑俊六、吉田善吾が留任しています。また、米内は首相就任と同時に現役を退き、予備役に回っています。海軍内では米内の予備役編入に反対した人もいましたが、米内自身が慣例に従って、筋を通す形になりました。
こうして誕生したこれまでと毛色の異なる内閣を好まない勢力がないはずがありません。米内内閣は何もしない最初から敵が存在し、茨の道を歩むことになるのは明白でした。
自壊する政党
1940年(昭和15年)2月、民政党の斎藤隆夫が衆議院本会議で代表質問を行いました。これが所謂「反軍演説」です。誰が最初に「反軍演説」と呼んだのかは知りませんが、別に軍を批判しているわけではありません。乱暴にまとめると「近衛内閣の時に始まった支那事変ですが、まだ事変は続いている。目的がころころ変わり、最終的には『東亜新秩序』の建築という雲をも掴むような目的になり、近衛は政権を投げ出す始末。その後の内閣も一向に事変を解決できないまま、聖戦という大義を掲げ、今でも戦闘は続いている。一体いつになったら事変は終わるのか?どうやって終わらせるつもりなのか?国民は疲弊してるんだぞ」という基本的には近衛ディスです。
しかし、これに陸軍が「こっちだって一生懸命やってるんだ!聖戦を批判するなんてけしからん!」と反応して大きな事件に発展してしまいます。陸軍だけでなく、社会大衆党と時局同志会も斎藤議員の演説を批判しました。民政党は攻勢を逃れるために斎藤議員に離党勧告を行った上で、懲罰委員会にかけることを決定します。懲罰委員会で除名が可決されると、衆議院本会議で議決にかけられることになりました。その結果、賛成296票に対し、反対7票で斎藤議員の除名が決定されます。
斎藤議員の除名処分は、空気を読めない発言をしたら議会から抹殺されるという前例を作ったという点で大きな意味を持ちます。しかし、それだけでは終わりません。政友会は議会で除名に反対票を投じた芦田均らに離党勧告を行ないましたが、同党の重鎮である鳩山一郎が反対、久原房之助総裁がすぐさま復党させることで事態を収めようとします。すると、今度は強硬派が脱党してしまい、政友会は分裂してしまいます。同様に社会大衆党も反対票を投じた片山哲らを処分したことで分裂しています。こうして、議会は自らの手で言論の自由を封殺してしまったのです。
稀代の弁舌で名を馳せた斎藤隆夫。
もちろん『ゴルゴ13』の作者とは同姓同名の別人です。
「反軍演説」以外にも「普通選挙賛成演説」「粛軍演説」など有名な演説を行なっています。
現在では反戦主義者のような扱いになっていますが、別に戦争自体を否定していたわけではないんですよね。
議会で勇気ある発言をしたことに関しては立派な人ではありますが。
次回、汪兆銘政権が誕生しますが・・・前途多難な米内内閣であります。