第78回もう一度まなぶ日本近代史~近衛新体制運動、一国一党体制へ向けて動き出す~

文:なかむら ひろし

 阿部信行内閣は、インフレーション対策として価格統制を行ないますが、逆に国民の生活を苦しめる結果となってしまったり、貿易に関する行政権を一元化しようと貿易省設置を訴えますが、外務省から猛反発を受け、取り下げるなど、すぐに求心力は失われていきました。これを外交で取り返そうと、野村吉三郎外相はジョセフ・グルー米国駐日大使と日米通商航海条約の継続交渉を行いますが、これも上手くいかず、遂に議会から不信任決議を出されてしまいます。結局、唯一の支持勢力であった陸軍からも見放される形となり、解散には打って出ず、阿部内閣は退陣します。後継首班は、昭和天皇の意向もあり、親英米派として知られる米内光政海軍大将でした。しかし、組閣の段階で陸軍はこれを快く思っているはずもありません。また、議会は斎藤隆夫議員の所謂「反軍演説」から議員の自由な言論を自らによって封殺し、その存在意義が失われていきました。

不憫すぎる汪兆銘

 1940年(昭和15年)3月、遂に汪兆銘を首班とする南京国民政府が成立します。これは近衛文麿内閣の時から進められていた話なのですが、とても時間がかかりました。まず、親日家として知られる汪兆銘による新政権というのは、どう見ても日本の傀儡政権にしか見えませんし、軍人である蒋介石と違って、文官である汪兆銘は軍事力も有しておらず、同調者がほとんど現れなかったことにあります。また、汪兆銘は中華民国の主権を認めてもらうことを日本との和平条件とした対日和平と反共を訴えることで、支持を獲得しようとしたのですが、日本側から満足な和平条件案を引き出せず、具体的な政策を人民に示すことができなかったことも時間がかかった原因です。
 阿部内閣の時、汪兆銘に対して和平交渉案を出しているのですが、これを作ったのが近衛内閣の時に設置された興亜院でした。興亜院というのは、対中外交を一元化するために様々な機関から寄せ集められた烏合の衆です。日本全体の国益や実際に交渉に当たっている人間を無視して、それぞれがそれぞれの利益を追求をするため、自然と和平交渉案は汪兆銘にとって厳しいものになります。しかし、亡命までした汪兆銘はもはや引き返すことはできません。日本側に大きく譲歩する形で和平交渉案を受け入れることになります。もちろん、こんなことで人民を納得させられるはずもありません。
 もうひとつ、汪兆銘政権成立が遅れた理由は、日本側に「やっぱり蒋介石と交渉しないとダメだ」と考える人たちがいたことです。事実、アメリカが汪兆銘政権樹立を批判したことなどもあって、日本は南京国民政府をすぐに承認していないのです。しかし、南京国民政府樹立に当たって、重慶国民政府から和平派を切り崩していますから、重慶政府には抗日派しか残っていません。この後、重慶国民政府と和平工作を行なうのですが、結果は言わずもがなというわけです。

いざ挙国一致体制へ

 五・一五事件から政党政治へ回帰することはなく、先の反軍演説事件によって、既成政党はその政治的指導力を完全に失ってしまいます。そんな中で起こったのが新体制運動です。政友会の久原房之助や民政党の永井柳太郎といった革新派たちは軍部と協力してでもその力を取り戻そうと聖戦貫徹議員連盟を結成します。彼らは、既成政党の解消とそれに代わる統一新党を結成し、一国一党の強力な政治的指導力によって、政党政治の弊害を打破しようと目論みました。そして、その新党の党首として担ぎ上げられたのが近衛文麿枢密院議長でした。そして、1940年(昭和15年)5月に近衛は盟友の木戸幸一・有馬頼寧と共に『新党樹立に関する覚書』を作成、6月には『新体制声明』を発表することになります。
 一国一党による政治体制を構築しようという議論は、予てより行なわれており、特に目新しいものではありませんでした。しかし、近衛はそこに国民の積極的な政治参加を促し、より強力な国民的基盤を築き上げようとしました。押し付けではなく、国民の自主性を引き出すことで、その政治的指導力はより強力なものになると考えたのです。また、これまでの政党政治はいかに軍部の独走を抑えるかということが課題になっていましたが、近衛の場合は「軍部主導」で行なってきたことを「政治主導」で行なおうとしていたということも相違点といえるでしょう。

木戸幸一内大臣誕生

 一方、宮中では体調の悪化が心配されていた湯浅倉平内大臣が辞意の意向を明らかにしたため、後任人事の選考が本格化しました。後任には若槻礼次郎、平沼騏一郎、近衛文麿、木戸幸一らの名前が挙がります。しかし、ここで元老西園寺公望が意見を述べることはありませんでした。結局、湯浅内府が推薦した木戸が内大臣に就任することになります。西園寺も「前任者が後任者を推薦するという形が一番いいじゃないか」と異論を述べることはなかったわけですが・・・西園寺は木戸の経歴も実務能力の高さも内大臣として相応しいとしながらも、親英米派である西園寺にとって、陸軍と近しい親独派である木戸とは明らかに政治的に対立しています。木戸の内大臣就任に表立って反対はしなかったものの、どうも気に入らなかったのではないかと邪推してしまいます。
 そして、この木戸幸一の内大臣就任はこの後、大きな影響を与えます。後継首班の奏薦は、内大臣が元老との協議の上で行うことが慣例となっていましたが、1940年(昭和15年)11月に西園寺が薨去すると、内大臣が主催する重臣会議が引き継ぐことになります。つまり、後継首班の決定権を事実上、木戸が手に入れることになったというわけです。国内の革新機運が高まっていく中での木戸幸一内大臣就任は、近衛新体制の具現化を確実なものとしたと言っても過言ではないのかもしれません。


内大臣となった近衛文麿の盟友、木戸幸一。
維新三傑のひとり、木戸孝允の孫(養子の子供)として知られます。
近衛内閣で文部大臣として初入閣し、平沼内閣では内務大臣も務めました。(ちなみに初代厚生大臣だったりします)
親独派ではあったものの、二・二六事件の処理に奔走したことから昭和天皇の信頼は厚かった模様。
ただ、この後、怪しい行動を取るようになります。
もしかすると、彼もまた・・・

 国内の革新機運がここまで高まったのは、欧州であの国が大躍進を見せていたからに他ありません。次回、再び欧州に目を向けてみることにしましょう。

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