第79回もう一度まなぶ日本近代史~ドイツの快進撃、バスに乗り遅れるな!~
支那事変解決のため、近衛文麿内閣の時から進められていた汪兆銘を首班とする南京国民政府が遂に成立しましたが、明らかに日本の傀儡政権であるとして、中華民国内で支持を得られなかっただけでなく、アメリカからも批判を浴びることになり、和平交渉が進展することはありませんでした。
一方、国内では『反軍演説事件』により、政党の政治的指導力の失墜が決定的なものとなったことで、その力を取り戻すためには軍部と協力することも辞さないという勢力も出てくるようになります。彼らは近衛文麿を押したて、既成政党を解消し、それに代わる一国一党の統一新党を結成することで、強力な政治的指導力を発揮し、政党政治の弊害を克服しようという新体制運動を起こし、国内の革新機運が高まっていきます。また、湯浅倉平内大臣が体調の悪化によって辞任すると、近衛の盟友である木戸幸一が内大臣に就任したことで、近衛新政権の誕生は確実なものとなったのです。
日本国内で全体主義的な革新機運がここまで高まってきたのには理由があります。それは、欧州におけるドイツの大躍進でした。
ドイツの電撃作戦
1914年(昭和39年)9月、ドイツがポーランドに侵攻し、ポーランドと事実上の同盟関係にあった英仏がドイツに宣戦布告したことで、第二次世界大戦は始まりました。しかし、ドイツも英仏も動きません。宣戦布告がなされた後も戦闘がまったく起こらなかったことからフランスでは『奇妙な戦争』などと呼ばれたのですが、これには理由があったのです。
まず、英仏が第一次大戦に懲りて、平和主義というのもおこがましい平和ボケに陥っていたことです。宥和政策といって、ヒトラーを野放しにしていたのは戦時体制移行のための時間稼ぎだったわけですが、ミュンヘン会談を破ってポーランドに侵攻したドイツと戦わなければ、もう誰も英仏を信用しなくなってしまいます。ドイツとの戦争に躊躇していた英仏も大国としての威信を懸けてドイツと戦わざるを得ない状況に陥ってしまったわけです。しかし、この時の英仏にはドイツとやり合えるだけの軍事力が備わっていなかったのです。特にフランスはドイツ国防軍にビビりまくっており、全く動くことができません。ドイツもそれを知っていて、じっくり準備を整えていたのです。
これに対し、イギリスのチェンバレン首相は「何だよ、ヒトラーも動けないんじゃん」と楽観視したところで、遂にドイツが動き出します。1915年(昭和40年)4月、ドイツはデンマーク、ノルウェーに侵攻、瞬殺してしまいます。これによって、チェンバレン首相に対する批判が殺到して総辞職、ウィンストン・チャーチル首相が誕生します。しかし、ドイツの猛攻はまだ始まったばかりです。同年5月、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクのベネルクス三国への侵攻、そしてこちらも瞬殺します。そして、遂にフランス本国への攻撃が開始されるのです。
弱すぎるフランス
1915年(昭和40年)5月、ドイツはフランス本国へ総攻撃を仕掛けます。フランスは鉄壁と呼ばれた対独要塞線『マジノ線』に戦力を集中して迎え撃つはずだったのですが、ドイツはマジノ線を無視して、侵攻不可能と呼ばれたアルデンヌの森を突破し、フランス国内へ侵攻したのです。援軍に来ていたイギリスも北仏ダンケルクで包囲されてしまい、イギリス本国への撤退を決定します。この時のなりふり構わず英仏連合軍を救出するという『ダイナモ作戦』は、ドイツが戦力をパリ攻略に集中していたことなどもあって成功し、結果的にイギリスの士気を高めることになります。
しかし、イギリスが撤退した後のフランスはもはや戦意喪失、パリはドイツの手に落ち、遂には降伏してしまいます。こうしてフランスは北部をドイツに直接占領され、南部にはドイツの傀儡政権(ヴィシー政権)が置かれるという憂き目に遭うことになります。この時のフランスの弱さは、ドイツの方がびっくりするほどだったとか。ちなみに勝ち馬に乗ろうと、ドイツ国防軍のパリ入城直前にイタリアが参戦しています。
こうして、誰が見ても欧州にはドイツに対抗できる勢力はなくなったという状況になったわけですが、イギリスのチャーチル首相は「絶対に降伏しない!」と徹底抗戦を誓います。彼にはきちんとした勝算があったのです。アメリカを引きずり出せば勝てると。また、イギリスに亡命したフランスのシャルル・ドゴール将軍も『自由フランス政府』を名乗って、ドイツに抵抗を続けます。
バスに乗り遅れるな!
欧州でのドイツの大躍進は、日本国内でもマスコミに連日取り上げられ、「ドイツの勝利は間違いない」と報じられました。これによって、国内の革新機運は高まり、英米と衝突してでもドイツと軍事同盟を結び、東南アジアに進出するという『南進論』が盛り上がります。もはやドイツの勝利は確実で、日本が蘭印(インドネシア)や仏印(ベトナム・ラオス・カンボジア)に進出するためには、ドイツ側に立っていなければならないという理論です。三国同盟といえば陸軍というイメージですが、元々『南進論』を唱えていた海軍もこの頃には大多数が賛成しています。これには親英米派といわれる米内光政内閣でさえも蘭印に石油や錫、ゴムなどの対日輸出制限を行なわないように約束させたり、タイ王国と日泰友好和親条約を結ぶなど、南進への足がかりを作っています。
しかし、そうは言っても、米内首相に英米と戦争になってまで三国同盟を締結する気はなく、三国同盟締結を求める陸海軍と対立することになります。また、近衛文麿が本格的に新党結成に動き出すため、枢密院議長を辞任し、後任に平沼騏一郎を推薦していたのですが、米内首相はそれを知ってか知らずか原嘉道副議長を議長に昇格させ、副議長には海軍の重鎮である鈴木貫太郎を起用しました。この人事で米内内閣は近衛ら革新派はもちろん、平沼ら伝統右翼も敵に回してしまいます。唯一の後ろ盾だった湯浅倉平が内大臣を辞任した今、米内内閣に味方はいなくなってしまったわけです。
そんな状況に痺れを切らせたのが陸軍でした。畑俊六陸相に倒閣の意思はなかったものの、参謀総長である閑院宮載仁親王から辞表を提出するように言われてしまいます。畑陸相も宮様の命令には逆らえず、辞表を提出し、後任の陸相を出しませんでした。その結果、米内内閣は総辞職することになってしまいます。総辞職の際、米内首相が「陸軍のせいだ」と強調したこともあり、陸軍が軍部大臣現役武官制を悪用した典型例として扱われることも多いのですが、倒閣は海軍も望んでいましたし、世論も近衛待望論で溢れています。陸軍がやらなくても、どこかで行き詰っていたことは確実でしょう。強いて言うなら、ドイツの大躍進が米内内閣を倒したという感じですかね。
昭和天皇からの信頼も厚く、良識派と呼ばれる米内光政。
高身長かつ端正な顔立ちで女性人気が高かったそうです。
海相就任当初は、「見た目だけ」は立派な『金魚大臣』なんて呼ばれていましたが、最後は『海軍の至宝』と呼ばれるまでになりました。
英米を敵に回すことになると、三国同盟締結には終始反対。
「アメリカと戦っても勝てる見込みがない」とまで言っています。
ただ、部下を殺害されたことに怒って、北支事変を支那事変に拡大させたり、海相の仕事とはいえ、英米を仮想敵にして予算を取り続けたり・・・
もうちょっと徹底して欲しかった人物であります。
次回、第二次近衛内閣が誕生!一国一党体制が出来上がる・・・のか?