第80回もう一度まなぶ日本近代史~本当に大丈夫?日独伊三国同盟締結~
ポーランド侵攻後、しばらく動きを見せなかったドイツが再び動き出します。デンマーク、ノルウェーをあっという間に制圧すると、返す刀でオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国も制圧。そして、遂にはフランスをも降伏させてしまいます。こうして、欧州でドイツに対抗できる勢力はなくなってしまったのです。
このドイツの快進撃に日本国内は「バスに乗り遅れるな」と熱狂し、『南進論』と『日独伊三国同盟締結』が再び叫ばれるようになります。こうした状況の中、近衛文麿は枢密院議長を辞任し、新体制運動を本格化させ、陸軍は畑俊六陸相に辞表を提出させ、三国同盟締結に反対する米内光政内閣を倒してしまったのです。
第二次近衛内閣誕生
米内内閣が倒れると、宮中では後継首班選定のため、重臣会議が開かれました。会議は「当然近衛以外にはない」と、後継首班は近衛であっさり終了です。一応、近衛自身は「新体制運動のこともあり、軍人がやった方がいい」なんて言いましたが、こんなものはポーズに過ぎません。これを聞いた元老西園寺公望は「今頃、人気で政治をやろうなんて時代遅れ」だと不快感を示し、木戸幸一内府に同意を求められた際は、「老齢で世の中のことがわからなくなった」と奉答を拒否しています。しかし、木戸内府は「元老は明確に拒否してるわけじゃないし、別にいいじゃん」ということで近衛を奏薦することになります。こうして、近衛に大命が降下されました。
1940年(昭和15年)7月、第二次近衛内閣が成立します。陸相には対中強硬派として知られる東条英機が就任し、海相は親英米派の吉田善吾が留任したほか、近衛の側近である風見章が法相、平沼騏一郎も参議として入閣しています。そして、課題山積すぎて困難を極める外相を任されたのが松岡洋右でした。
なんでやねんって話ですが、外相の任命は陸軍の顔色を窺わなければなりません。その点、国際連盟を「華々しく」脱退した松岡という人物は陸軍から人気があり、好都合だったわけです。理由は、それだけではありません。対米戦に反対していたことや自信家で気の強い性格は軍部への抑止力になるのではないかという期待もあったのです。(その性格が危険だとして、木戸幸一らに反対されていましたが)事実、松岡の外相就任が決定すると「陸軍なんかに口出しはさせねぇ」と言い切っています。(陸軍に口出しされまくることになるわけですが)
松岡のアクロバティックすぎる構想
松岡外相はこれまでの外交を痛烈に批判しており、外相に就任するや否や盟友である重光葵以外の在外外交官をすべて更迭するという、所謂『松岡人事』を断行します。現在でもこういった強い政治家は人気になったりしますが、改革は必ずしも良いとは限りません。下手な改革ならしない方がマシなのです。松岡はもっと酷い人たちを連れてきてしまいましたとさ。
この『松岡人事』に最も反発したのが駐ソ大使だった東郷茂徳です。東郷は日本が北樺太の権益をソ連に返上する代わり、ソ連は蒋介石への援助を中止するという条件で不可侵条約を結び、支那事変解決と悪化する日米関係修復を目指していました。そんなソ連との交渉もまとまりかけていたところでの更迭です。結局、東郷は去ることになり、その後の交渉は陸軍が「北樺太の権益を返上する必要はない」と圧力をかけて、おじゃんにしています。
続いて松岡外相は三国同盟締結へ動き出します。当初は「ドイツなんて信用できない」などと言っていたのですが、三国同盟を推進する陸軍に圧力をかけられているうちに「自分なら上手いことできるんじゃね」と謎の自信が湧いてきて、三国同盟推進派へ変貌していきました。松岡外相の構想は、三国同盟を結んだ後、ソ連との国交調整をドイツに仲介してもらい、四国協商に発展させることで、アメリカとの交渉を少しでも優位に進めることでした。しかし、ドイツ・ソ連という危ない国と手を組むということは日本も危ない国とみなされることになりますし、アメリカから譲歩を引き出せるという保障はなく、これまで以上に硬化することも考えられます。また、この構想はドイツの勝利が条件です。結果を知っている我々は、こんな無理ゲーをよくやろうと思ったなという感じですが、当時はこうでもしないと打開できないような状況だったのです。
日独伊三国同盟締結
ドイツからスターマー特使が派遣され、三国同盟締結へ向けての協議が進んでいく中、反対派の吉田海相が体調不良で辞任してしまいます。この頃には海軍も多数が三国同盟賛成に回っており、吉田海相は陸軍などの外部からだけでなく、内部からも攻撃に晒されることになり、過労と心労がたたって、倒れてしまったのです。(自殺未遂だという説もあるようです)そして、吉田に代わって海相に就任したのが及川古志郎海軍大将でした。
及川海相は、就任直後に三国同盟締結について協議する四相会議に出席することになります。しかし、病気で倒れた吉田前海相から十分な引継ぎも行なわれておらず、三国同盟に関して検討する時間もありません。「海軍としてはもう少し検討したい」と時間を稼ぎますが、流れは完全に三国同盟締結です。結局、ここで反対したら閣内不一致で内閣は倒れ、海軍がその責任を負うことになることや吉田前海相も消極的ながら同意を示していたことなどもあって、及川海相が賛成に回り、三国同盟締結が閣議決定されることになります。
その後も審議は重ねられ、原嘉道枢密院議長や石井菊次郎枢密顧問官らのごく少数が「日独防共協定で裏切られたドイツは本当に信用できるのか」などと心配の声を上げましたが、1940年(昭和15年)9月、ベルリンで特命全権大使の来栖三郎、ドイツ外相リッベントロップ、イタリア外相チアーノの間で日独伊三国同盟が調印されました。ちなみにドイツとの協議の段階で「ドイツとアメリカが戦争になった場合、日本は自動的に参戦する」という条件を求められましたが、松岡外相は上手くかわしています。これを松岡外相の手腕と見るかどうかは微妙なところではあります。
病気の吉田善吾に代わって、海相に就任した及川古志郎。
かなりの漢文マニアでその知識は学者レベル。
いっそ学者になった方が良かったと言われてしまうような評価の低い人物であります。
積極的に何かをやったというよりも何もしなかったことが問題というタイプ。
とにかく責任を逃れるような言動が目立ちすぎです。
ただ、海軍が三国同盟賛成に回ったのは、彼ひとりの責任ではありませんし、海相に就任したタイミングが悪すぎました。
次回は「あれ?新体制運動はどうなったの?」「実はまったく進んでなかったのでした。」というお話です。