シネマフィリアvol.1 帰ってきたヒトラー
近年、主人公が異世界へと飛ばされる系のアニメやライトノベルが沢山溢れかえっている。現代人が過去へタイムスリップし、その過去の人たちからすごーいと神のように讃えられるそんな物語が多くあるが、今作では劣勢の末、自殺したはずのヒトラーが現代にタイムスリップしてヒトラーのものまね芸人として人気者になっていく物語である。
戦後70年に見えるヒトラーは現代をどう見るか?そこの過去と現代の文化的ギャップの面白さが終盤につれて様相が変わってくる。この物語はほとんどヒトラーの一人称で話は進んでいく。21世紀にもしヒトラーが現れたらというこう考えるのではとういうと思わせる場面が何度も登場する。しかしこの映画の凄さはヒトラー、ナチス的なもののタブーを超えたさらに上の人間的、政治的魅力を果敢にも切り込んでいるところである。ドイツでのヒトラー、ナチス的なもののタブーは日本や他の国々では考えられないレベルだ。ナチスを連想するもの、例えば手をあげる時の手を表にしないやハーケンクロイツのようなシンボルなどヒトラーやナチスはドイツの国内では絶対社会悪なのである。ヒトラーの『我が闘争』が復刻したのも2016年になってからである。
この映画ではフィクションとノンフィクション部分の融合するスタイルで作られている。
映画の中でヒトラーの格好でドイツ中をロケをして、ヒトラーの格好でドイツ市民にインタビューしていく。ドイツ市民はみんなヒトラーの格好をしたものまね芸人として認識し、意外にもタブーにはならず、ヒトラーの「何か不満はないか?」という言葉にみな現代ドイツ人ドイツ社会に対して不満を漏らしていき、移民の問題や貧困、仕事がない、少子化の問題、差別意識や偏見など浮かび上がっていく。そして「こんな国で誰が産みたいと思う」なんて言葉まででて、排外主義的な人も人種による偏見だらけの人でも右寄り、左寄り、ノンポリという一律には色分けができないくらいの考えが話されていく。よく日本とドイツは似ていると言われるが、社会の問題も似たようなものである。このあたり『JACASS』のじいさんのいたずらにも似ている。このノンフィクション部分では思っていた以上にドイツ人にものまね芸人として認識されてしてっていたが、ヒトラーという存在がすんなり受け入れられたということがわかった。ただやはりタブー的存在なのでヒトラーをみて怒る人たちもいる。このところのテロや難民の受け入れや受け入れたあとの難民の問題が持ち上がってこのノンフィクション部分が効果的になっている。
しかしここで一番危険だなと思った箇所をあげるとこの映画のヒトラーの言うことに「一理あるな」って思った視聴者の方である。歴史上で知るヒトラーに比べより包容力のある態度、発言に妙な親近感が湧き、みな耳を傾ける。このまんまと乗せられていく感じにリアリティを感じた。
もう一方のフィクション部分。この部分ではさっきまでへらへらと『JACASS』を見てるような感じで笑いながら見ていたが、終盤差し掛かりあたりの強制収容所で家族を皆殺しにされたユダヤ人の認知症の老婆がヒトラーを見るなり「こいつ、ヒトラーじゃないか」と言う。そしてさらにヒトラーをモノマネ芸人として見ていた人に「昔と同じだ。みんな最初は笑っていたんだ」。このセリフにこの映画の全てが詰まっているといってもいい。
ただ主人公のサヴァツキっていう人物。これが本当にぬるい。コメディとして垢抜けない感じ。ドイツでは犬の社会的地位が高いのにその犬を射殺したヒトラーをずっと側にいて異常だと思わなかったのかと思った。そして終盤、ユダヤ人の彼女や家族に対してヒトラーの態度で考えを変え、急にヒトラー本人では?っていう論理感が実に面白くない。というかユーモア不足だった。ただあくまでドイツ映画なのでここはそういうキャラがいなかったら本当に大変な映画になってしまう。
フィクション部分はいろいろとツッコミどころは多いがしかしやはりドキュメンタリー部分が本当に素晴らしい映画。
そして最後のエンドロール、「機は熟した」という最後のヒトラーの言葉は現在と過去の状況のシンクロが示されている。言ってしまえば、このドイツの状況下、いつどこで誰がヒトラーになってもおかしくないという映画だった。