第81回もう一度まなぶ日本近代史~どこが一党独裁?大政翼賛会誕生~
欧州におけるドイツの快進撃によって、『南進論』と『三国同盟締結』が再燃すると、親英米派の米内光政内閣は陸軍に倒されてしまいます。そして、誕生したのが第二次近衛文麿内閣です。近衛首相は、松岡洋右を外相に起用し、三国同盟締結へ向けて動き出します。反対派の最後の砦と思われた海軍もこの頃には大多数が三国同盟締結賛成に回っており、この流れを止めることができませんでした。こうして、ついに三国同盟が締結されてしまったのです。
新体制運動はどうなった?
ドイツの躍進によって、盛り上がりを見せた『新体制運動』でしたが、これといった進展はありませんでした。しかし、第二次近衛文麿内閣成立までに日本革新党、社会大衆党、政友会久原派が解党、さらに近衛内閣が成立すると、民政党の永井柳太郎らが脱党、それに続いて国民同盟、政友会中島派、東方会も解党してしまいます。まだ何も決まっていないのに既成政党は政治的指導力を取り戻すべく、事実上新体制への合流を表明したのです。
新体制運動に既成政党はノリノリで、軍部もこれを支持したため、抵抗勢力はなかったかのように見えました。しかし、これに異を唱えたのが平沼騏一郎を中心とした伝統右翼です。平沼は「天皇大権を侵害するような一国一党体制などけしからん!江戸時代以前の幕府へ先祖返りするつもりか!」と痛烈に批判したのです。これまで良好な関係を続けてきた平沼からの攻撃に驚いた近衛首相でしたが、「まだ民政党が残ってるやないか!民政党が反対政党として残ってるからセーフやろ!」と思っていました。しかし・・・1940年(昭和15年)8月、最後の政党である民政党までもが解党してしまったのです。近衛新体制運動は、何も決まっていないのにも関わらず、その期待ばかりが膨れ上がり、既成政党がすべて解党するという無党時代へと突入してしまいました。
中身は空っぽの大政翼賛会
近衛首相は、民政党までもが解党してしまった今、このまま新党を結成すると事実上の一国一党体制となってしまい、平沼ら伝統右翼の批判を避けられないと、新党結成と一国一党体制を断念することを発表します。すると、「一国一党体制を諦めるとは何だ!話が違うじゃないか!」と陸軍の武藤章軍務局長が激怒したのです。伝統右翼を立てると陸軍が立たないという板ばさみ状態になり、近衛首相はやる気をなくしてしまいました。それでもブレーンである後藤隆之助の説得により、陸軍には総辞職をちらつかせて武藤を抑え、新党ではなく国民組織としてスタートすることが決まりました。
しかし、一難去ってまた一難、今度は革新派と伝統右翼との間で意見が対立します。議論は紛糾し、話はまったくまとまらず、決まったのは組織の名前を『大政翼賛会』にすること、総裁は首相が兼任することだけでした。名前を決めるだけで10時間もかかり、具体的な綱領に関しては何もまとまらず、近衛首相に一任しようということでようやく大政翼賛会が発足します。ところが、その発会式で近衛首相は「大政翼賛会に綱領も宣言も不要」と演説したのです。これには出席者全員がズッコケました。特に革新派は総裁に権力を集中する仕組みを用意していたのですが、まさかその権力をあっさりと放棄するような発言が飛び出すとは思ってもみなかったのです。
独裁者というのは何でも思うままにできる反面、大きな責任が生じます。しかし、皆が担ぎ上げた近衛文麿は、一人で大きな責任を背負うことを恐れ、皆の顔色を窺うという独裁者には一番不向きな人物だったのです。これが新体制運動の一番大きなミスだったのかもしれません。
結局、近衛首相は平沼ら伝統右翼に屈する形となり、内閣改造で新体制運動を推進してきた安井英二内相と風見章法相を外し、新たな内相には平沼、法相には平沼と共に新体制運動を批判してきた皇道派の重鎮として知られる柳川平助が就任することになります。さらに平沼は内相に就任するや否や「大政翼賛会は政治結社ではなく、公事結社である」と宣言し、大政翼賛会の政治活動をも封じてしまいました。こうして、大政翼賛会は誕生と同時にその本来の目的を失い、上意下達のための行政補助機関に成り下がってしまったのです。
大政翼賛会のその後
一方、勝ち馬に乗ろうと後先を考えずに解党してしまった政党人たちは、さすがにすぐに政党を再結成するわけにもいかず、議会で大政翼賛会への攻撃を開始します。さらに自分たちの権限を奪われるのではないかと考えた官僚や統制経済によって自分たちの利益を害されるのではないかと考えた財界人なども大政翼賛会を攻撃しました。これで新体制運動は完全に挫折してしまったのです。
しかし、大政翼賛会は後に産業報国会(労使が協調して総力戦遂行を助けるように資本家や労働者が加入させられた組織)・婦人会・町内会・隣組などを傘下に収めたことで、政府の意思を一般国民にまで直通させるという総力戦遂行のために大きな役割を担うことになります。『隣組』は町内会よりも小さい、自治体の最小単位で、江戸時代の『五人組』のような相互扶助と共に相互監視という意味も併せ持ち、『隣組』からハブられるともはや死活問題という状態です。これが後に政府・陸軍に悪用されることになるわけです。ちなみに「隣組はいいぞ」っていうキャンペーンの一環で歌が作られました。そのメロディは皆さんもご存知のはずです。『ドリフ大爆笑』のOP曲や『トリスハイボール』のCMソングがそれです。
平沼騏一郎と共に新体制運動をぶっ潰した柳川平助。
かつては皇道派の重鎮ということで近衛文麿との関係は良好でした。
皇道派ということで二・二六事件後に予備役に編入されましたが、第二次上海事変が勃発すると現役復帰。
第10軍司令官として中国に派遣されるのですが・・・
そうです、暴走して南京事件に発展させてしまったあの人です。
次回、とうとう仏印へ手を出してしまいます。これにはアメリカも激おこでございます。