第7回もう一度まなぶ日本近代史~大老、桜田門外に散る~
前回は、大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結(違勅調印)し、14代将軍を徳川慶福(家茂)に決定するという強攻策に出たというところまで書きました。
今回は、前回書ききれなかった日米修好通商条約が如何に不平等だったのか、その内容についてから始めたいと思います。
日米修好通商条約(1858年)
1.神奈川(→横浜)、長崎、新潟、兵庫(→神戸)の開港
実際には、神奈川は横浜に変更され、横浜が開港すると日米和親条約で開港した下田は閉鎖されています。また、兵庫も開港の際、神戸に変更されています。
2.自由貿易を認める
3.アヘン輸入の禁止
清のように戦争ではなく、交渉による締結のため、この条項を組み込むことができました。
4.外国人の居留地を設け、外国人の国内旅行を禁止
5.関税自主権の放棄(協定関税制)
日本は、関税の税率を自分で決めることができず、相手国との相談によって決定します。
6.治外法権(領事裁判権)を認める
外国人が日本で犯罪を犯した場合、その国の領事がその国の法律に則って裁判を行います。
5と6は、日本が一方的に認めるものなので、これが不平等条約といわれる所以です。明治政府は、この条約を改正することを目標に動いていくことになります。
幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶことになり、これらを日米修好通商条約と合わせて、安政の五カ国条約と呼びます。
1860年には、条約批准のため、新見正興、小栗忠順がアメリカ船ポーハタン号に乗って渡米しています。また、護衛を名目に木村芥舟、勝海舟が幕府軍艦咸臨丸で太平洋を横断しています。
開港の影響
通商条約締結の翌年、1859年から貿易が始まります。幕末の貿易で押さえておきたいのは、最初は輸出超過、後に輸入超過になるということです。後に戦争が起こるので、武器・艦船や軍服などの軍事関連の輸入が増えると考えればよいと思います。以下に幕末の貿易の特徴をまとめておきます。
1.最大の貿易港は横浜
2.最大の貿易相手国はイギリス(アメリカは南北戦争が始まり不調)
3.輸出品は生糸が80%を占める
4.輸入品は毛織物・綿織物といった繊維製品が70%、ついで武器・艦船
貿易が盛んになると物価高が進んでいきます。また、輸出品の生産地と直接結びついた在郷商人と呼ばれる人たちが、問屋に卸さずに直接開港場へ送ったため、国内の流通が混乱しました。さらに日本の生糸は大人気だったため、生産が追いつかなくなり、物価高が加速することになります。
そこで幕府は、流通の維持と物価抑制のため、1860年に雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五品に関しては、必ず江戸の問屋に卸してから輸出するように命じます。(五品江戸廻送令)しかし、在郷商人や条約違反だと主張する外国からの反対に遭い、失敗に終わります。
また、金銀の交換レートが日本では1:5だったのに対して、外国では1:15という差を利用して、大量の金貨が外国に流出してしまいます。そこで幕府は、金の含有率を下げた万延小判に改鋳し、金の流出を防ごうとしますが、通貨の実質的価値が下がったため、さらなる物価高を引き起こしてしまいました。
このように外国との通商の開始は、人々の生活を苦しめることとなり、反幕府や攘夷(外国勢力を日本から追い出してしまえという考え)の機運を高めることになります。
一橋派の反撃
井伊大老の違勅調印に、孝明天皇や一橋派の怒りは頂点に達します。そこで水戸藩の朝廷工作により、孝明天皇は戊午の密勅を水戸藩に下します。内容は以下の通りです。
戊午の密勅
1.幕府は違勅調印に対しての呵責と説明責任を果たすこと
2.幕府は公武合体(幕府は朝廷の言うことを聞く)を進めること
3.以上を各藩に伝達すること
これを知った井伊大老は激怒します。将軍の臣下である水戸に、幕府を飛ばして密勅が下るということは、幕府をガン無視して政治に介入してくるという、この上ない侮辱であり、反逆なのです。
安政の大獄
井伊大老は、戊午の密勅に関与した人々を徹底的に弾圧していきます。それは武家だけでなく、朝廷にまで及び、処罰を受けた者は100名を超えたといわれています。
代表的なところを挙げると、水戸前藩主徳川斉昭は永蟄居(無期限の謹慎)、その息子一橋慶喜、越前藩主松平慶永は謹慎、松平慶永の家臣である越前藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰、小浜藩士梅田雲浜は処刑されました。
桜田門外の変
安政の大獄は、反対派の怒りを爆発させました。1860年3月3日、井伊直弼は水戸脱藩浪人17名と薩摩藩士1名に桜田門外で襲撃され、命を落としました。将軍に次ぐ最高権力者である大老が暗殺されたという事実は、幕府に大きな衝撃を与えました。これは、幕府の権威の失墜の象徴となり、幕府は井伊直弼のような強行路線を諦めざるを得なくなっていくのです。
止まらない大和魂で前科何犯なんだよというほど投獄されまくりの松陰先生。
後に日本を動かしていく若者を育てた松下村塾は座敷牢だったそうです。
次回は、井伊大老亡き後の幕府とロシアの軍隊おそろしあというお話をお送りします。