第8回もう一度まなぶ日本近代史~和宮降嫁作戦~
安藤・久世連立政権
井伊直弼が暗殺された後の幕閣を担うのが安藤信正と久世広周です。井伊政権時代に老中となった信正は、桜田門外の変の処理に当たります。
当時、後継ぎを決定しないまま、暗殺など不覚を取って死亡した場合、その家は改易(取り潰し)となるという慣例がありました。井伊直弼もそのケースに当てはまるため、譜代大名の筆頭である名門井伊家であっても改易を免れるのは難しいのです。しかし、井伊家を改易してしまうと、家臣たちが『忠臣蔵』のように実行犯である水戸家に討ち入りを行うなど、譜代と親藩による泥沼の争いに発展することが考えられます。
そこで安藤信正は、井伊直弼の死を隠し、病気で彦根に帰ったことにして、井伊家の改易を上手く回避します。ここから信正が幕閣の中心となるのです。また、老中としては新人だったため、井伊直弼の強攻策に反対し、老中を罷免された久世広周を復帰させ、以後二人が協力体制を取るようになります。前回やった五品江戸廻送令や万延小判の鋳造は、このときに行われています。
尊皇攘夷論
安藤・久世の政策を見ていく前に、今後頻繁に出てくる「尊皇攘夷(尊攘)論」について書いておきたいと思います。
水戸では、テレビドラマ『水戸黄門』で有名な徳川光圀の『大日本史』の編纂から非常に学問が盛んでした。(幕末の水戸といえば、テロばかり起こしている印象が強いのですが、実は学問の発展で知りすぎたが故におかしな方向にいってしまったのです。)そこで形成されていったのが水戸学で、尊皇攘夷論は後期水戸学に分類されます。
尊皇攘夷論は、会沢正志斎、藤田東湖らが中心となり、従来から存在した尊皇論(天皇を尊ぶ)と攘夷論(外敵を撃退する)が結びつき、生まれた思想です。これは、その後の志士たちに大きな影響を与えることになります。
幕末の対立関係として、尊皇と佐幕(幕府支持)が挙げられることが多いのですが、厳密には正しくありません。佐幕の代表である会津や新撰組の近藤勇なども尊皇思想です。尊皇論には、幕府の権威の正当性が含まれており、佐幕と対立関係にあるのは倒幕の方が正しいといえます。
また、攘夷論も条約を破棄せよとする考え方や開国したうえで外国に負けない国づくりを行うべきという考え方があるなど、単純な対立構造ではないということを押さえておいてください。
尊皇攘夷が盛り上がる中、外国人殺傷事件が相次ぎます。1860年、米総領事ハリスの通訳兼秘書のオランダ人ヒュースケンが薩摩浪士に斬殺されたり、1861年には高輪東禅寺のイギリス仮公使館を水戸脱藩浪士が襲撃するという事件が起こっています。
公武合体と和宮降嫁
安藤・久世は、井伊直弼の開国、公武合体路線は踏襲しますが、朝廷への強硬路線は否定します。井伊直弼は強硬な態度で挑み、公武合体に失敗しているので、穏健な政策を選びました。
公武合体とは、公(公家、朝廷)と武(武家)が協調して、政局を安定させようという考えです。朝廷としては幕府に言うことを聞かせたい、幕府としては反幕府勢力を抑えたいという思惑がありました。
そこで公武合体が名実ともに上手く進んでいることを示すために、孝明天皇の妹である和宮を将軍徳川家茂に嫁がせるという所謂「和宮降嫁」を行っています。和宮には有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたことや和宮本人も難色を示していたことなど問題はありましたが、岩倉具視の説得で孝明天皇は決断し、「攘夷を実行すること」などを条件に和宮降嫁の勅許を与えています。(実は井伊直弼も朝廷との政略結婚を画策していましたが失敗していました。)
今度は坂下門
和宮降嫁に成功し、公武合体は上手く進んでいるように見えました。しかし、1652年に江戸城坂下門外で安藤信正は和宮降嫁に反対する水戸浪士に襲撃され、命は取り留めたものの重症を負ってしまいます。(坂下門外の変)重症を負いながらも英公使オールコックと会見し、オールコックからは賞賛されますが、国内ではそうはいきませんでした。
信正は襲撃された際、逃げ回った挙句、背中に傷を受けたという武士として恥ずかしい行為を行ったとし、失脚させられてしまいます。(信正失脚のひとつの説ですが、真相はわかっていません。)久世広周も直後に連帯責任として老中を罷免されています。
ロシアの軍隊おそろしあ
今回最後に、安藤・久世連立政権時に起こったロシアとの事件を紹介します。「これがロシアのやり方だ!」というのが理解していただけると思います。
1861年、ロシアの船が対馬に来航します。そして、船の故障を名目に対馬に居座ってしまいます。いつまでたっても出て行かず、狼藉を働くロシアに抗議しますが、ロシアは対馬の租借を要求します。租借とは借りるということなのですが、実質は「借りパク」のようなものです。
幕府は、外国奉行小栗忠順を派遣し、ロシアとの交渉に当たらせますが、交渉は難航します。小栗は、幕府に対馬を直轄地にし、国際世論に訴えかけるなど提言しますが、幕府に拒絶され、外国奉行を辞任してしまいます。
行き詰った幕府に対して、先ほどチラッと出てきた英公使オールコックが英国海軍による圧力で追い払うことを提案します。ロシアの南下を危惧するイギリスの助けを借りて、なんとかロシアを対馬から追い払うことができたのです。
嫌々ながら徳川将軍家に嫁いだ和宮でしたが、家茂との夫婦仲は円満だったそうです。
次回は、いよいよ打つ手がなくなった幕府。幕末といえば、薩長土肥ということで、これら諸藩の動きをやっていきます。