第9回もう一度まなぶ日本近代史~久光、江戸に立つ~
明治維新に貢献した主な藩として、「薩長土肥」と称されることがあります。安藤・久世政権が倒れた後の流れをこれらの藩の動きと一緒に見ていくことにしましょう。今回は、試験などではあまり問われることのない発展的な内容になっています。
LOVE & 攘夷
長州は、重臣長井雅楽の唱えた「航海遠略策」が採用され、藩論となっていました。その内容は、外国人排斥や条約破棄といった無謀な攘夷は止め、外国との交易を深めて、諸外国と渡り合える国づくりに励むように、朝廷は幕府に勅令を下すべきだといったものでした。
長井は、これを朝廷、幕府に訴えると、公武合体を進めていた安藤・久世は、渡りに舟だと言わんばかりにこれを受け入れます。しかし、坂下門外の変で安藤が失脚すると、尊皇攘夷派が台頭し、藩論が尊皇攘夷に傾きます。その中心メンバーが吉田松陰の門下生である久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)です。
長州の尊皇攘夷派は、朝廷の攘夷派である三条実美や姉小路公知と通じ、公武合体派の岩倉具視などを排斥すると、朝廷を尊攘化させます。こうして、長州は京都で幅を利かせる一大勢力となるのです。
奸物には天罰を
一方、土佐では一橋派であった藩主山内豊信が安政の大獄によって隠居謹慎させられてはいましたが、その実権はいまだ手中にあり、右腕である参政吉田東洋による藩政改革が進められていました。吉田東洋は、公武合体派であり、藩論も公武合体が主流でした。
そんな中、江戸に遊学に出ていた土佐藩士武市瑞山は、長州や薩摩の尊皇攘夷派と交流を深め、土佐を尊皇攘夷でまとめ、三藩が協力して朝廷の手助けをすることを誓います。武市は「土佐勤皇党」を結成し、土佐に戻ると、藩論を尊皇攘夷に改めるよう主張しますが、受け入れられませんでした。
そこで、武市は土佐の守旧派(いわばアンチ吉田東洋)と結託し、吉田東洋失脚を画策します。そして、選んだ手段は暗殺でした。吉田暗殺により吉田派は失脚、守旧派政権が誕生します。土佐勤皇党と土佐守旧派は、アンチ吉田という部分で結託していただけで、元々政治的な考えは合わなかったのですが、さすがに藩内外で尊皇攘夷思想が高まる中、守旧派も勤皇党を無視することはできず、勤皇党の意見が受け入れられるようになります。
勤皇党も長州と同じく三条実美と通じ、遅れていた土佐の京都における地位を確保することになります。武市は、各藩との交渉や朝廷工作に当たったのですが、その裏では土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛等を使い、安政の大獄で尊皇攘夷派弾圧に関与した者等を「天誅」と称して暗殺していました。
公武合体?尊皇攘夷?
続いて肥前なのですが、幕末の肥前と聞いて、(歴史に詳しい方を除いては)誰か名前を挙げることができるでしょうか?肥前出身の大隈重信や江藤新平は、明治になってからの話ですのでまだまだ先のお話です。それもそのはず、幕末の肥前は政局にまったくといっていいほど関与していません。
それでは、肥前は何をやっていたかというと、ひたすら国力の強化を行っていました。肥前といえば長崎です。当時、もっとも外国船を目の当たりにしていたのは、肥前の人々でしょう。古くから科学技術の研究に注力し、made in Japanの蒸気船や近代兵器アームストロング砲を初めて完成させたと言われています。
日本有数の軍事力と技術力を持っていた肥前ですが、政局に関しては明確な立ち位置を示すことはありませんでした。それどころか、地方版鎖国状態を維持し、雑音を徹底的に排除しました。肥前が政局に絡んでくるのは、幕府崩壊直前です。止めを刺しにいったという表現が正確かどうかはわかりませんが、ニュアンスとしてはそのような感じです。
歴史の表舞台にはあまり登場しないのですが、肥前がもっとも輝いていた時代と言えるかもしれません。そして、次に輝くのが芸人はなわさんの「SAGA佐賀~♪」のヒットなのです。
みんな勘違いしすぎ
そして、今回のとりを飾るのは「薩長土肥」では先頭に来る薩摩です。それには理由があります。教科書的に重要なのはここだからです。
大河ドラマで有名な篤姫は、薩摩藩主島津家から一旦朝廷の近衛家に養女として出した後に13代将軍家定に嫁いでいるように、薩摩は朝廷・幕府ともに親交が深いのが特徴です。安藤・久世政権が倒れ、行き詰った幕府に改革を要請するために立ち上がったのが島津久光です。
この島津久光という人物は、病気で亡くなった前藩主島津斉彬の弟で、現藩主の父親です。久光は、兵を率いて江戸に向かうわけですが、薩摩の実権を握っているとはいえ、身分上はいち藩士に過ぎません。江戸に行ったところで門前払いを食らうことは明白です。
そこで一旦、京都へ向かい朝廷からのお墨付きを得ることで正当化しようとするのです。朝廷工作が成功し、勅使大原重徳の護衛として江戸に向かい、幕政改革の要求を行いました。
久光は公武合体派であり、決して倒幕の意志などありません。京都では自藩の急進的な尊皇攘夷派を粛清する寺田屋事件を起こしています。ところが、兵を率いて京都にやってきた久光に尊皇攘夷派は幕府に対して武力で打って出るのではないかと勘違いします。これがこの時期、尊皇攘夷が盛り上がった原因のひとつなのです。
顎が大きかった武市先生のことを坂本龍馬は「顎(あぎ)」と呼んでいたそうです。
「天誅」という名の殺人事件の首謀者で、京都の治安悪化の一翼を担った武市先生のこの後は、不幸な方向へ向かっていきます。
次回は、島津久光の要求した幕政改革についてやっていきます。ここから幕末の動乱は激化していきます。