第10回もう一度まなぶ日本近代史~復活の一橋派、文久の改革~
前回はあまり試験で問われることのない少し発展的な内容が中心でしたので、前々回の続きという形で進めていきたいと思います。
動き出す薩摩
公武合体を進めていた老中安藤信正でしたが、坂下門外の変で失脚すると幕府主導による公武合体は頓挫してしまいます。老中や大老という役職は、名門の譜代大名でなければ、就任できないという慣例があったため、幕府は人材不足に悩まされ、いよいよ打つ手がなくなりました。
そこで立ち上がったのが薩摩の島津久光でした。久光は、前藩主である島津斉彬の弟で、現藩主の父親です。斉彬の意思を継ぐべく、幕府に改革を要請するため、江戸に向かうわけであります。しかし、久光には江戸へ幕政改革を要求できるような権限は持っていなかったのです。
朝廷コネクション
久光は、兵隊を率いてまず京都へ向かいます。薩摩は琉球との密貿易などで経済的に裕福でしたので、朝廷に貢物を捧げるなどして、朝廷との関係を深めていました。久光は朝廷工作をして、幕政改革の勅令を下すように要求しました。つまり孝明天皇が仰っているのだから、改革しなさいと言えるようになるわけです。久光の朝廷工作は成功し、勅使大原重徳が江戸へ下ることになります。久光は、その護衛という名目で江戸に付いていきます。
寺田屋事件
久光にとって、江戸に向かう前にクリアしておかなければいけない課題がもうひとつありました。薩摩は、久光をはじめ公武合体派が多数でしたが、少数ではありますが桜田門外の変に薩摩藩士が1名参加していたように、急進的な尊攘派が存在していたのです。こういった勢力がいることで、まとまる話もまとまらなくなる可能性があったので、非常に邪魔な存在だったわけであります。
久光は、急進派有馬新七らがいる寺田屋を襲撃し、壮絶な同士討ちとなります。これが寺田屋事件です。薩摩は急進派の粛清に成功し、藩論を公武合体に統一します。
文久の改革
江戸に着いた久光は、幕府に幕政改革を要求し、幕府はこれを受け入れます。このときに行われた一連の改革は、文久の改革と呼ばれます。
1.人事改革
安政の大獄での処罰者たちの赦免を行い、それまで政治の表舞台から遠ざかっていた人たちを復帰させました。三大要職と呼ばれる役職を新設して、旧一橋派へ政権交代が行われました。
将軍後見職-一橋慶喜
朝廷でいう摂政のような役割で、年少の将軍徳川家茂の後見人として、実質的な権力を振るいます。将軍の後見人は、以前から存在していましたが、正式な役職となったのは、このときが初めてです。ただ、慶喜が職を免ぜられ、禁裏御守衛総督に就任すると廃止されました。
政事総裁職-松平慶永(越前)
役職名が違うだけで大老と同じような役割です。親藩大名である慶永は、大老や老中といった役職に就くことが出来ないため、新設されました。
京都守護職-松平容保(会津)
京都の治安維持に当たります。同じような役割として、従来から京都所司代というものがありましたが、その上に置かれ、その指揮も行います。
2.参勤交代の緩和
江戸時代、一部を除いた大名は、1年ごとに領地と江戸を行き来し、そこで生活しなければなりませんでした。それを3年に1回に緩和したわけですが、幕府の権威が失墜していたため、守る者はおらず、実質は参勤交代の廃止と言っても過言ではありませんでした。本来、参勤交代は大名が自発的に行っていた行事だったのです。
3.西洋式軍制の採用
江戸から薩摩へ、帰路の途中で
1862年、要求が通り、幕政改革が進められることになると、島津久光は薩摩へ帰ります。久光の行列が生麦村(現在の神奈川県)に差し掛かったとき、馬に乗ったイギリス人数名と出くわします。
大名行列と出くわした際、道を空けて、頭を上げてはならないというルールは、日本人なら常識として理解していますが、イギリス人は知りません。護衛の薩摩藩士はイギリス人に対して、下馬して道を譲るようにジェスチャーで示しましたが、イギリス人は道の脇を通れと言われたと思い、そのまま行列とすれ違おうとしました。怒った薩摩藩士はイギリス人に斬りかかり、イギリス人1名が死亡、2名が重症を負うという事件が起こりました。これが「生麦事件」です。
京都に着いた久光は、攘夷論者である孝明天皇から拍手喝采、お褒めの言葉を頂き、尊皇攘夷運動が過熱します。公武合体派の久光にとって、思っても見ない方向へとことが進んでしまいます。
文久の改革で政権交代を果たした旧一橋派でしたが、必ずしも一枚岩ではありませんでした。
また、幕府の官僚機構との衝突もあり、まるで「民主党」のようでした。
一橋慶喜は会津、桑名と結びつき、「一会桑政権」へと移っていきます。
次回は、先を越されてしまった長州が動きます。歴女に大人気の新撰組の前身も登場します。