第11回もう一度まなぶ日本近代史~攘夷実行、世界に喧嘩を売る長州~

文:なかむら ひろし

 公武合体を進めるため、江戸に向かった島津久光でしたが、その帰り道で起こした生麦事件が尊攘派を刺激してしまい、事態は思わぬ方向へと進んでいきます。尊攘派の急先鋒と自負していた長州は、薩摩に先を越されたことに焦りを感じ、攘夷実行へと動き出すのです。

攘夷実行の督促

 長州と急進派公卿は、朝廷に「幕府による攘夷実行」を勅令として出すようように工作します。そして1862年、朝廷は江戸に勅使を派遣し、幕府に攘夷を実行するよう迫るのです。第8回でやった「和宮降嫁」の条件のひとつが「攘夷実行」であったことを覚えているでしょうか。幕府は翌年、将軍徳川家茂を上洛させ、孝明天皇の前で攘夷実行を誓うと約束します。
 幕府に攘夷実行の遵守を約束させた長州ではありましたが、まだ実際に攘夷が実行されたわけではありません。意図的ではない事故のようなものですが、実際に攘夷を実行した薩摩に遅れをとってはいけないと、長州の高杉晋作や久坂玄瑞らは、翌月品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼打ちにするイギリス公使館焼打ち事件を起こしています。とりあえず、長州も攘夷を行っておかなければいけいないという理由で焼かれたイギリス公使館に泣けてきます。

ここからしばらく、試験では問われない内容が続きます。

浪士組結成

 将軍上洛にあたって、京都の治安の悪さは心配だということで、あらかじめ京都に将軍警護を目的とした部隊を送り込むことを提案した人物がいました。庄内(現在の山形県)藩士清河八郎です。彼の提案は、山岡鉄太郎(鉄舟)を通して幕閣へ吸い上げられ、採用されます。
 まず、この将軍警護部隊となる人材を集めなくてはならないわけですが、清河は腕に覚えのある人間であれば、身分や年齢はおろか、犯罪者でもOKという破格の条件で募集しました。その結果、得体の知れない人物が200名以上も集まりました。中でも浪士がその大半を占めたため、この組織は浪士組と呼ばれるようになります。ちなみに、この浪士組に参加した人物の中に、後の新撰組の中心メンバーとなる近藤勇や土方歳三らがいました。
 ここで浪士(浪人)について、簡単に説明しておきます。一般的に武士はどこかの殿様に仕えて生活をしているわけですが、浪士はどこの殿様にも仕えていない武士を指します。ただ、浪士の取締は、町人の取締を行う町奉行の管轄であるため、帯刀を許された町人と呼ぶべきか、身分上とても微妙な立ち位置であるといえます。

ペテン師清河八郎

 清河八郎は、将軍に先駆け、浪士組を率いて上洛します。京都に到着すると、清河は浪士組に「浪士組の本来の目的は、将軍警護などではなく、攘夷の実行である」と言います。つまり、幕府の権力やお金を使って集めた兵を、そのまま幕府を転覆させる兵へとひっくり返そうとしたわけでございます。
 浪士組の中には少数ではありますが、この清河の策略に反対し、京都残留を求めた人物がいました。近藤勇や土方歳三らです。新撰組に関しては、また別枠で詳しくやろうかと思いますので、ここでは深く触れません。
 浪士組の大半、200名以上は尊皇攘夷の志士として、(生麦事件の処分を巡って、英海軍が横浜に来航し、幕府にプレッシャーをかけており、イギリスと戦争になるかもしれないことを名目に)江戸にとんぼ返りすることになるわけですが、幕府は清河の動向に不審を抱いていました。そして、清河の策略は幕府に漏れることとなり、会津藩士佐々木只三郎(後の京都見廻組隊士)らに暗殺されてしまいます。
 清河を失った浪士組は、庄内藩預かりとなり、新徴組(江戸の治安維持組織)に組み込まれますが、庄内藩士と元浪士組は仲が悪く、元浪士組の半数以上が脱退しています。

ここでまた、教科書的な内容に戻ります。

ついに攘夷実行

 1863年、将軍徳川家茂が上洛し、「同年5月10日をもって、攘夷を実行すべし」と各藩に伝えます。しかし、「攘夷を実行すべし」のあとには「ただし、本当に攘夷を実行したらどうなるかはわかってますよね?」という、ダチョウ倶楽部のネタである「絶対に押すなよ!」のように「絶対にやれよ!」と言いながら「絶対にやるなよ!」というニュアンスが含まれていたため、どの藩も動きませんでした。が、「ただし、長州は除く」でした。
 長州は、関門海峡を通過する米仏蘭の船を砲撃します。(下関事件)オランダは、米仏の船が砲撃されたことを知っていたのですが、長年の友好国である自分たちには砲撃してこないだろうと思っていたそうです。
 米仏は、これを黙って見過ごすわけもなく、報復に出ます。長州は、米仏の艦砲射撃を受け、甚大な被害を出しますが、屈することなく、関門海峡の封鎖を強行するのです。
 このとき、高杉晋作は下関の防衛を任され、身分にとらわれない志願兵を集めた奇兵隊を結成しています。ただ、直後に長州の正規部隊である撰鋒隊といざこざを起こして、奇兵隊総督を罷免されています。(奇兵隊自体はなくなっていません。)
 長州がこんなことをしているうちに、将軍は江戸に帰ってしまい、結局攘夷実行の遵守は、グダグダになってしまうのでした。

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幕末一のペテン師(?)清河八郎の策略は大失敗に終わります。
しかも、新撰組という尊攘派の目の敵となる組織を生み出してしまいます。

 次回は、イギリスの生麦事件の報復が薩摩を襲います。薩摩終了のお知らせ・・・いやいや、すごいよ、薩摩隼人!

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