第12回もう一度まなぶ日本近代史~薩英戦争、世界最強の海軍に挑む薩摩~

文:なかむら ひろし

 幕府は、長州が「LOVE & 攘夷」を叫んでゴチャゴチャしていることに困っている間、もうひとつの懸念事項である「生麦事件」の処理にも手を焼いていました。

幕府とイギリスの交渉

 イギリスは「生麦事件」を巡り、幕府に対して、犯人の引渡し、謝罪と賠償を求めます。しかし、幕府は「無礼討ち」は国内では合法であるし、そもそもイギリス側が悪いとイギリスの要求を拒絶します。これに怒ったイギリスが幕府に対して軍事力でプレッシャーをかけるようになると、幕府は完全にビビってしまいます。幕府の中では、さっさと賠償金を払った方がいいのではないかという意見が出ますが、ちょうど将軍家茂が上洛し、攘夷実行を誓ったこともあり、攘夷派から「当然、賠償金なんて払いませんよね?」というプレッシャーもかけられることになったわけです。
 幕府は、薩摩に対して、「これは我々を困らせるために、薩摩がわざとやったに違いない」と怒りをあらわにします。政事総裁職松平慶永は、島津久光のおかげで政治の表舞台に復帰できたこともあり、薩摩を擁護する発言をしていますが、一時江戸城を出入り禁止になるなど、幕府の薩摩への怒りは相当だったようです。
 なかなか賠償金を支払わない幕府に業を煮やしたイギリスは、「もはや戦争待ったなし」だと開戦の準備を始めます。そこで戦争を回避するため、老中小笠原長時は独断で賠償金の支払いに応じます。幕府は、「よくやってくれた!」という感じなのですが、体裁上、小笠原長時を老中から罷免しています。(ちゃっかり後に復帰させていますが)

薩摩とイギリスの交渉

 幕府から賠償金を受け取ったイギリスですが、実行犯である薩摩から謝罪の言葉もありませんし、犯人の引渡しも達成されていません。イギリスは、幕府はガバナンスが取れていないと判断し、直接薩摩との交渉に向かうことにしました。
 薩摩に到着したイギリスは、犯人の処罰と賠償金を求めますが、薩摩は回答を保留し、城内での交渉を持ちかけます。しかし、城内での交渉は命の危険が伴うとイギリスは拒否し、「こちらの要求を呑むのか呑まないか、さっさと答えろ」と言います。薩摩はイギリスの要求を呑む気などさらさらなく、交渉は難航します。
 ちなみにこのとき、薩摩藩士は、薪水を求めるイギリス艦にスイカ売りに変装し、奇襲を仕掛けようと計画しましたが、イギリスはあまりに殺気立ったマッチョな男たちを怪しんで乗船を拒否し、ほとんどの薩摩藩士はイギリス艦侵入に失敗したため、計画は中止されています。

治外法権の問題性

 生麦事件は、イギリスにとっては殺人事件でありますが、薩摩にとっては「無礼討ち」は合法であり、無礼を働いたイギリス側に非があると考えています。ここで問題となるのが治外法権です。
 日英修好通商条約により、日本で犯罪を犯したイギリス人はイギリス領事によって、イギリスの法律によって裁かれることになっています。しかし、イギリスには「無礼討ち」などという法律はないわけでありますから、整合性が取れません。しかも、薩摩は条約は幕府が「勅許なし」に勝手に結んだものでありますから、我々には関係ないという姿勢を崩しません。こうして、薩摩は治外法権の問題性を深く認識していくことになるのです。

薩英戦争勃発

 1863年、またまた業を煮やしたイギリスは、またまた武力をちらつかせます。そして、薩摩藩士が乗った商船を拿捕すると、薩摩はイギリス艦隊に砲撃を開始します。これが薩英戦争の始まりです。
 イギリスは悪天候のため、苦戦を強いられながらも、射程距離でも威力でも勝る艦砲射撃で応戦すると、薩摩城下は火の海と化します。その後、イギリスは横浜に撤退し、戦闘は終わります。そして、横浜のイギリス大使館で講和を結び、薩摩が賠償金を支払うことで薩英戦争は終結します。

実は薩摩が勝った?

 教科書では、薩英戦争でイギリスにボコボコにされた薩摩が攘夷実行は不可能だと悟り、倒幕へと傾いていくとなっていますが、実際のところはどうだったのか見ていきましょう。

1.死傷者はイギリスの方が多い
 実は、薩英戦争での死傷者数はイギリスの方が多かったのです。しかも、旗艦の艦長および副官が薩摩の砲撃で戦死しています。薩摩の方は、物損被害は甚大でしたが、イギリス艦隊の艦砲射撃を警戒して、予め人々を射程範囲外に避難させていたのです。

2.一銭もお金を払っていない
 薩摩はイギリスに対して、賠償金を支払ったことは事実です。しかし、このお金は幕府から借りて支払っているのですが、これを踏み倒しています。つまり、薩摩はひとつも自腹を切っていないのです。

3.結局、犯人を引き渡していない
 イギリスからは犯人の処罰を求められていましたが、「逃亡してしまったので無理です」といって、これを回避しています。

4.孝明天皇から褒められる
 さすが攘夷論者の孝明天皇です。生麦事件に続いて薩英戦争でも薩摩にお褒めの言葉を与えています。

5.イギリスに認められる
 薩英戦争とその後の講和から、イギリスに骨のある奴だと認められています。オールコックの後任公使であるパークスや通訳官アーネスト・サトウらは、薩摩に武器の支援などを行うようになりました。

 以上のことから、薩摩は一方的にボコボコにされたわけではありませんでした。薩英戦争は、薩摩が負けたということは事実ではありますが、現在でも薩英戦争の実質的な勝者は薩摩であるという人が存在します。

アメリカの反応

 最後に生麦事件、薩英戦争に対するアメリカの反応を紹介しておきましょう。実は、アメリカはどちらも薩摩を擁護しています。生麦事件は日本のことを理解していないイギリス人が悪い、薩英戦争は事前に幕府から賠償金をもらっておきながら関係のない民家を焼き払うとかやりすぎといっているのです。
 教科書的には、日本を脅して無理やり開国させた怖い怖いアメリカですが、皆さんはどう思われるでしょうか?開国以来、アメリカは日本にとって最友好国なのです。

jmh_12
スイカ売りに変装して、イギリス艦内を襲撃しようとした海江田信義。
実は、生麦事件でイギリス人を殺害した実行犯なのです。(まったく悪いと思っていない)
イギリスがこのとき、海江田を捕らえていたら目的のひとつを達成できたのです。

 次回は、調子に乗った長州が酷い目に遭います。出る杭は打たれるのです。

なかむら ひろしのTwitter

ついったウィジェットエリア