第13回もう一度まなぶ日本近代史~長州を追放せよ、八月十八日の政変~
前回、前々回で長州と薩摩の動きを見ていきました。尊皇攘夷が隆盛を極めたこの時期において、攘夷実行を行った長州と薩摩が政局の中心となっていったわけです。両藩はその主導権を巡って、対立を深めていきます。
孝明天皇の思想
今後の流れを見ていくうえで、理解しておいていただきたいのが、孝明天皇の思想です。政局が京都へ移ったこの時期、孝明天皇を抱えることが非常に重要になってきます。
孝明天皇は、外国嫌いの攘夷論者として知られています。現在もずっと続いている天皇家が保守的思想であることは自然です。しかし、朝廷主導による政治は望んでおらず、あくまで政治は幕府が行うものだと考えていたのです。この孝明天皇の思想は、長州ら尊皇攘夷派にとっても、薩摩ら公武合体派にとっても両立できないものなのです。そういう意味で、公武合体を訴えながらも生麦事件を起こすという矛盾した行動を取った薩摩は、孝明天皇から絶大な信頼を寄せられることになるわけです。
薩摩の失脚
しかし、その薩摩がピンチに陥る事件が起こります。1863年5月、三条実美とともに急進的尊攘派公卿の代表である姉小路公知が暗殺されてしまうのです。政敵である薩摩は、真っ先に疑いをかけられることになり、現場に残された犯行に使用されたであろう刀が薩摩藩士田中新兵衛のものでることが判明します。この責任を取らされる形で、薩摩は京都の政局から排除されていくことになります。
この事件は「猿ヶ辻の変」などと呼ばれ、幕末の謎のひとつとなっています。田中新兵衛という手練が刀をわざわざ現場に残していくのか、また田中自身が取り調べ中に自害してしまうなど謎が多く、真相はわかっていません。
この項目は試験などでは問われることはありませんが、こういうことがあったということだけでも理解しておけば、次の項目が入ってきやすいと思います。
大和行幸
薩摩の失脚により、主導権を握った長州は、更なる攘夷実行を進めようと画策します。その中心となったのが長州藩士久坂玄瑞と久留米藩士真木和泉です。幕府の命により攘夷実行を行ったのは長州のみ、攘夷実行を約束したはずの将軍もさっさと江戸に帰ってしまうというグダグダっぷりに、これでは埒があかないと考え、下関事件において長州に協力しなかった小倉藩の処分と天皇による攘夷実行(大和行幸)を企てます。この大和行幸には「倒幕」の意味も含まれていました。
しかし、諸藩はこれに猛反発、さらに孝明天皇もあくまで攘夷実行は幕府主導で行うべきという考えを持っており、調子に乗りすぎた長州に不快感を示します。これが失脚した薩摩に復活の機会を与えることになってしまいます。
八月十八日の政変
1863年8月13日に大和行幸の詔が出されますが、薩摩と会津を中心とした公武合体派が動き出します。中川宮朝彦親王を擁し、宮中から尊攘派を追放するクーデターを画策、孝明天皇の説得に成功すると、密勅が下ります。
8月18日、薩摩と会津、京都所司代を務める淀藩が御所の門を兵で固めます。さらに在京諸藩主にも協力を要請すると、諸藩もこれに応じます。長州ら尊攘派は、御所から締め出される形となります。この間に、三条実美ら急進派公卿の出入り禁止、長州の堺町御門警備役の罷免などが決定され、尊攘派は京都から追放されることになります。
このとき、三条実美ら7人の急進派公卿が長州に下ったことから、八月十八日の政変を「七卿落ち」とも呼びます。
政変の影響
政変の前日、大和行幸の魁として、公家中山忠光や土佐藩士吉村虎太郎らが大和五条の幕府代官所を襲撃する「天誅組の変」を起こしますが、政変による情勢の変化により壊滅してしまいます。また、10月には天誅組に呼応する形で七卿落ちで長州に下っていた澤宣嘉を抱えた福岡脱藩士平野国臣らが但馬生野の幕府代官所を襲撃する「生野の変」を起こします。生野代官所はすぐに降服しますが、翌日幕府の兵が到着すると澤宣嘉が逃亡、さらに大将の逃亡に激怒した農兵は逆に平野らを攻撃し始め、内部から壊滅していきます。
元々公武合体派であった土佐では、情勢の一変により、もはや利用価値なしと判断された土佐勤皇党員の捕縛が開始されます。首領である武市瑞山も捕縛され、土佐勤皇党は崩壊します。「土佐が尊攘派だったのは全部こいつらの責任です」と言わんばかりに、党員は次々と処刑、切腹させられました。
八月十八日の政変の際、出動した壬生浪士組は、その功により「新撰組」の名が与えられています。
長州は反撃しなかったため、大した活躍はなかったわけですが。
新撰組の名が天下をとどろかせることになるのは、次回のお話です。
京都から締め出されてしまった長州は、復権を狙い、画策しますが、あの男たちが立ちふさがります。次回、いよいよ新撰組が活躍します。