第14回もう一度まなぶ日本近代史~新撰組強襲、池田屋事件~

文:なかむら ひろし

 八月十八日の政変で宮中より尊攘派の一掃に成功した薩摩らは、公武合体政策を進めていくことになるわけですが、事は簡単には運びませんでした。これまで協力関係にあったと思われた薩摩と一橋慶喜の間に亀裂が生じるのです。

参預会議の成立

 朝廷は、薩摩藩主の父である島津久光、越前藩前藩主松平慶永、宇和島藩前藩主伊達宗城、土佐藩前藩主山内豊信、将軍後見職一橋慶喜らを上洛させ、今後の方針を決定していくことになります。島津久光が有力大名による合議によって政策方針を打ち出していくことを提案すると、これが採用されます。前述の4名と京都守護職松平容保が朝廷参預に任命され、参預会議が行われるようになります。
 参預会議の議題となったのが、八月十八日の政変で京都を追放された長州の処分と有耶無耶になっていた攘夷問題についてでした。中でも攘夷問題における島津久光と一橋慶喜の対立は激化していきます。

横浜鎖港問題

 攘夷問題での論点は、攘夷論者である孝明天皇が望んでいる破約攘夷(通商条約の破棄)と鎖港(開いた港を再び閉じる)でした。しかし、参預会議のメンバーは、そもそも攘夷思想は持っておらず、攘夷の不可能も認識していました。また、一部の過激派を除いて、攘夷論者の中でも破約攘夷は現実的ではないと考えられるようになっており、この頃には攘夷=京都に近い兵庫の開港中止と江戸に近い横浜の鎖港となっていました。こうした状況に孝明天皇は、深く失望します。そこで動き出したのが一橋慶喜でした。
 一橋慶喜は、それまで横浜鎖港に反対していたのにも関わらず、急に賛成に回ったのです。それにはふたつの狙いがありました。まず、薩摩に主導権を掌握されることを警戒したためです。もうひとつは、孝明天皇に気に入られたいということです。孝明天皇から絶大な信頼を寄せられている島津久光の権力は強く、慶喜にとって非常に厄介なものでした。ここで孝明天皇に気に入られ、後ろ盾にすることに成功すれば、自身の発言力は一気に強くなります。
 島津久光からすれば、「本当にやる気もないくせに、いい顔しやがって!ていうか、誰のおかげで政治に復帰できたと思ってるんだ!調子に乗るな!」という感じなのですが、慶喜も「外様は黙ってな!」という具合で、二人の対立は激化し、参預会議は何の成果も挙げることなく、わずか三ヶ月で崩壊してしまいます。

天狗党の乱

 慶喜が敵に回したのは、薩摩だけではありませんでした。元々、攘夷に反対していた幕閣とも対立します。慶喜は将軍後見職を辞任すると、朝廷から禁裏御守衛総督に任命され、拠点を京都へと移します。これまでは将軍の名を借りて権力を振りかざしていましたが、幕府の権威失墜、幕閣との対立から、朝廷の権威を利用するようになったわけです。そして、会津、桑名と連携を深め、一橋の政治力を会津、桑名の軍事力が支える一会桑政権を築いていきます。
 問題の横浜鎖港は、多方面からの反対でなかなか進みません。そんな中、久々に水戸の尊攘過激派が登場します。横浜鎖港を訴え、藤田小四郎らが筑波山に挙兵する天狗党の乱が起こります。しかし、幕府による鎮圧が始まると形勢不利と見て、京都にいる一橋慶喜を頼り、慶喜を通して攘夷を訴えようとします。しかし、加賀にたどり着いた際、京都から来る幕府軍を率いているのが頼りにしていた慶喜だと知り、降伏します。慶喜としては、ここで横浜鎖港を決定すると、武力蜂起に屈したことになるからと、水戸を切り捨てたのです。
 捕縛された天狗党員たちの多くは、幕府によって処刑されるなど厳しい処罰を受けます。さらに水戸では連座を恐れた保守派が天狗党員たちの親族を処刑しました。生き残った元天狗党員たちは恨み骨髄に徹し、後に新政府軍に参加し、徹底的に報復を加えることになります。この激しい内ゲバで、水戸は優秀な人材の多くを失い、明治新政府で要職を占めることができなかったと言われています。

長州の策略

 京都を追われた長州は、朝廷に無実を訴えますが、孝明天皇の怒りは抑えられず、失地回復はなかなか叶いません。そこで、長州系尊攘派たちは京都に潜伏し、ある計略を打ち立てます。しかし、それを見事に看破したのが新撰組でした。
 新撰組は、薪炭商・枡屋に不穏な動きありと捜査に出ます。すると、枡屋から大量の武器や長州の書簡が発見され、主人の枡屋喜右衛門を逮捕します。その正体は、連絡役や武器調達係を担っていた近江藩士古高俊太郎でした。新撰組は、古高に激しい拷問を加え、古高の自白により計画が発覚します。その内容は、「御所に火を放ち、その混乱に乗じて、一橋慶喜や松平容保ら佐幕派要職を殺害し、天皇を長州に連れ出そう」というものでした。
 さらに古高の逮捕を知った尊攘派たちが、今後の動きを協議する会合を開くという情報を得て、新撰組は動き出します。

池田屋事件

 人手の足りない新撰組は、会津に応援を求めますが、一向に援軍が来なかったため、少人数を二手に分けて捜索を開始します。会合に使われそうな場所を次々とローラー作戦で調べ上げていく中、近藤隊が池田屋に当たります。
 池田屋内は激戦となり、一時近藤隊はピンチに陥りますが、土方隊の合流や会津、桑名の兵が応援に駆けつけ、9名を討ち取り、4名を捕縛しました。さらに翌朝には、会津、桑名と協力して市中掃討を行い。20数名を捕縛しています。
 この活躍により、新撰組の名は天下をとどろかせることになり、破格の報奨金も得ました。逆に尊攘派は、長州藩士吉田稔麿、熊本藩士宮部鼎蔵ら優秀な人材が多数失われました。長州は、この事件がきっかけとなり、復讐に燃える強硬派の暴走に巻き込まれていくことになるのです。

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松門(吉田松陰の門下生)四天王と呼ばれた吉田稔麿の死は、多くの尊攘派長州藩士の恨みを買いました。
久坂と入江は、この後、強硬派に引きずられていくことになります・・・
松門四天王は、誰一人として明治を拝むことなく、亡くなってしまうのです。

 次回は、長州が無実を訴えるため、兵を率いて上洛します。それに対し、上野の銅像でお馴染みのあの人が長州を迎え撃ちます。

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