シネマフィリアvol.16 誰も語らなかった『ホーホケキョ となりの山田くん』について語ろう

文:田渕竜也


もう最近では二、三ヶ月に一回は金曜ロードShowで放送されるジブリ映画。「正直、もうジブリはいいよ」とか「何回同じ作品やるんだよ」って言いつつまたラピュタ、ナウシカ、トトロを見てしまう。どうせラピュタなんか見てもバルスとかツイートしてくだらないことに「いいね」してほしいだけなんだろうけど。
スタジオジブリといえば日本アニメーション界ではドル箱のように思われているかもしれない。しかし実際のところ、成功している作品というのは半分ぐらいしかない。ナウシカもラピュタもトトロも興行的には大失敗だ。その後、『魔女の宅急便』でヒットはするもののまだ小ヒットというところ。スタジオジブリが大作映画をつくるようになったのは『もののけ姫』の超弩級の大ヒット以降である。そして今作、『ホーホケキョ となりの山田くん』は大作主義になったジブリの第一発目にあたる作品であり、超弩級の予算と技術を詰め込んだ結果、超弩級のズッコケ方をした作品として世間では有名だ。金曜ロードshowでもたったの一回しか放映されていない。『となりの山田くん』以前の『平成たぬき合戦ぽんぽこ』、『おもひでぽろぽろ』までは宮崎駿が高畑勲のアシストとして映画製作スケジュールをジブリスタッフに対して激を飛ばすことができたが、今作は高畑勲単体だったのでスケジュールが遅れまくったのも予算がかさんだ要因だろうと思う。まぁこの作品に関わらず、高畑勲の作品はいつも失敗する。かつて制作した『柳川堀割物語』というも掘割というマニアックすぎる内容のドキュメンタリー映画では宮崎駿の自宅を抵当に入れるほど失敗している。

第1章・となりの山田くんの映像としての凄さ

となりの山田くんのキャラクターの動かし方の凄さについて

いしいひさし原作である今作のキャラクターはリアルな身体性を持たない完全なる二次元のキャラクター造形だ。宮崎駿のような人の骨格がはっきりしていて身体性を持っている絵柄であれば立体的な演出は行いやすいが、いしいひさしの言ってしまえばへのへのもへじみたいな線のみで平面的に構成されたキャラクター造形だ。高畑勲はこのへのへのもへじみたいな漫画的キャラクターに立体的な奥行きを作り出し、このキャラクターの顔を右から左、斜め上や下を見るなど会話での顔の動きや手の動き、目線の動きを法則性のない不規則な動きで人間を描くことに成功した。この平面を立体的に描くことのすごさって本当にやばい。普通、アニメーションでの会話のシーンというものは動きのないものである。誰かがしゃべっているときは、しゃべり相手は黙ってじっとしている。しかし『となりの山田くん』ではここまで細かい動きを付けることでアニメーションに「人間」を描くことを行っているのである。
しかし人間味溢れる映像作品を作ろうとする高畑勲なのでよく子どもには高畑作品はつまらない作品と言われてしまう。子どもにウケる宮崎駿とウケない高畑勲との大きな違いは漫画を描くことと映像を作っていることに大きな違いがある。例えば宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』で言えば現実ではありえないルパンの跳躍力やフィアット500の動きなどが漫画的であるが故に面白く感じるし笑いの部分になりギャグとなる。だけど高畑勲の場合、徹底的にキャラクターの動きに人間の動きをさせて映像作品を作っているので、そういったファンタジーな動きを全て無くしてしまった。その結果、あまり子どもウケのよくない作品となってしまった。まぁ、高畑勲自身、宮崎駿と違って漫画を通ってないし絵を描かないからより実写的なアニメ映像になったのかもしれない。

表現の手段として活用するCGの凄さ

普通、フルCGと聞くと何を思い浮かべますか?例えば映画トロンとかマトリックとかディズニー・ピクサーみたいな立体的にCGだろう。しかし『となりの山田くん』ではあくまでCGは水彩的な色彩で柔らかい線でいきいきとキャラクターを動かす表現の手段として使っている。半紙で描いたような途中で擦れて切れた線や色塗りにムラのある色塗り。これらを表現するための手段として活用している。だから労力も倍以上も掛かる。

第2章・『となりの山田くん』の中の静かな生と死

冒頭、ミヤコ蝶々師匠からのありがたいお説教スピーチ

映画の冒頭、絵描き歌から始まり、山田家のばあちゃんであるしげが描かれるところからはじまる。そのあと山田夫妻の結婚式でのケーキ入刀のシーンが始まり、ケーキ入刀のシーンでは結婚してからのスピードをボブスレーに例えて超ど級の作画ではじまる。ここではバックにミヤコ蝶々師匠のありがたいお言葉のスピーチが入ってくる。言っていることは「家族は荒波の中で手を取り合えばなんとかなる。しかし一番怖いのは静かで穏やかな凪のような海」といった内容でそこではこんな台詞がある。「ところで、長い人生航路で一番怖いのは何ですやろ?大嵐ですやろか、激流ですやろか、実はみごとに凪いた鏡のようなおだやかな水面です。」この「静かで穏やかなとき」こそ危機であるということはこの映画の中で何度も描かれている。

・最初のエピソードではののちゃんがデパートで置き去りにされ、ののちゃんと親からはぐれた男の子が喫煙所のベンチで座っている。本来、子どもが座るべき場所ではない、喫煙所のベンチをあえて大きく描くことでここは子どもが来るべき場所ではないということを静かに暗示している。

・しげばあさんが友人の見舞いに行くエピソードでは入院はしている友人が病院内の食堂のうどん、屋上、自販機のコーヒー、院内の噂、それから院内での気晴らしの楽しみを紹介する。そのあとしげばあさんが「そんで、あんたはどこが悪いのや?」って聞くんだけどその直後、友人は号泣して泣き崩れてこのエピソードが終わる。

・突然、映画の中で現れる暴走族が事故をしてぐにゃりと曲がったガードレール。ここではガードレールの下に供養の花瓶が置かれている描写ある。そのあとのシーンでは深夜の住宅街で爆音をたててバイクで暴走する暴走族が走り回っていて、そこでしげばあちゃんが注意しに行くところで老人が若者に注意しに行ってリンチされて死んだ新聞の描写が入る。そのあとしげばあちゃんに言われてしぶしぶたかしが暴走族に注意しにいく。しかしここでは勇敢に立ち向かうわけではなく、本当は見てみぬふりをしていたかったたかしの姿があった。だけど家族を守らなければならない夫という立場もあるから遠巻きに近づくがビビってなにもできない。心配した妻としげばあちゃんがやってきてしげばあちゃんが上手く暴走族を説得して追い返す。しかし殴られることもなく、何も出来なかったたかしは月光仮面になる妄想をして一人ブランコに座って自身の男としての「死」を噛み締めて終わる。

このミヤコ蝶々師匠のスピーチに於ける「凪」と表現したのは「現代の日本の姿」ではないだろか?戦争、高度成長期、バブルといろいろとあった激動だった昭和が終わり平成という時代になった。平成という時代ではもう戦争をする日本に姿はもうどこにもない平和な時代だ。しかし平和に見える普通の生活でも暴力や命を落とす穴や消えて行く命がある。90年代、パチンコの駐車場で子どもを置き去りにして死なせたり、親父狩りにあってリンチされて殺されたり、だからここまで『となりの山田くん』での「死」というキーワードが病院で泣き崩れる友人、ぐにゃりと曲がったガードレールの下にある花瓶、リンチされて死んだ老人の新聞見出しのように日常の中にある「死」を残酷でリアルに描くことでになったのではないだろうか?

第3章・昭和的家族像の死とその後の生

テレビと一家団欒
山田くんの家は夫のたかし、妻のまつ子、妻の母であるしげばあちゃん、長男ののぼる、そして長女ののの子の五人家族である。茶の間にはテレビ一台あって、たかしとまつ子が見たいテレビのチャンネル争いをするシーンがある。チャンネル争いをするのはどの家庭にもかつてはあった。しかし今ではもはやかつてあった昭和の風景である。『となりの山田くん』が公開された99年ではもうテレビは一家に一台ではなく、一部屋一台ぐらいの所有率でみんな好きな番組を一人で見ることができた。今ならスマホとパソコンでHikakin、Seikinといったところか。もうチャンネル争いというものはとうの昔に消滅している。もし山田家の一人一人にテレビがあったらこんなチャンネル争いはなく、父は野球、母はドラマ、子どもはテレビゲームにアニメになって、家族が顔を合わせることが激減することになる。

電話にみる時代性
長男のぼるに女性から電話が掛かってくるシーンがある。のの子から「お兄ちゃん、女の人から電話」と大声で言ったので、母と祖母がピクリとして聞き耳を立てて、いろいろのぼるは茶化される。このシーンももはやかつてあった風景といっていいだろう。一家に一台、電話があった昭和の時代、平成の時代になるとケータイ電話が登場し、99年ですらケータイ電話の所有率はかなり普及していた。今では中学生になる頃には大体の学生がスマホを所有している。一人一人、勝手に他者とコミュニケーションをとることができる。

食卓、父の威厳にみる時代性
山田一家の食卓はちゃぶ台を囲んで食事をするスタイルが基本である。しかしここで昭和の家族像とは異なるのは父親の威厳である。昭和の家族像で代表的なアニメで言えばサザエさんの波平がいる。波平は割と磯野一家の中では家族内での決定権などかなり強い権限を持っている。しかし山田くんのたかしは全くそういった決定権がほとんど描写されていないし、妻に使われる父親の描写。これは妻のまつ子の母であるしげばあちゃんと同居しているから姑と嫁戦争みたいなものは回避できている。その変わりに父としての決定権はサザエさんの磯野家よりも民主的で各個人に基本的に委ねられている。

よく『となりの山田くん』の映画レビューには「どこにでもいそうな家族」という感想が多い。しかしちゃぶ台、一家に一台のテレビ、一家に一台の電話、そして祖母のいる家族などは現代では見ることのなくなった。もはや昭和の原風景である。今では一人一人にそれぞれにスマホやパソコン、SNSに動画サイトが見れる時代だ。そうしたとき居間に集まる家族というものは崩壊し昭和的家族像は死んだとみることができる。山田一家って言わば昭和に1979年に目撃例がなくなったニホンカワウソみたいなものなのである。もう見ることのない家族像なのである。
ここまで「となりの山田くん」の日常に於ける死と昭和的家族像の死について書いてきたが、ラストシーンのたかしの結婚式のスピーチをアドリブでやり過ごすシーンは「生」について描かれている。父としての復活、そしてそのあとの「ケセラセラ」の歌詞に出てくる「未来は見えない。お楽しみ」は昭和の家族像から平成の家族へバトンがうつる未来ではないだろうか?

最終章・ミヤコ蝶々師匠へのアンサー

終盤のシーンで長男のぼるが言う「我が家が平和な理由が分かった。みんな変だからなんだ。みんなまともだとバランスがおかしくなる。」と言う。ここで冒頭のミヤコ蝶々師匠のスピーチのアンサーが山田家から答えられる。みんなまともだとどうなるか?怒りもしない、笑いもしない、悲しみもない感情のない誰も失敗しても支えない家族。それこそが山田一家の出した家族崩壊という答えだったのではないだろうか?序盤の昭和的家族の「死」から終盤の家族全員で歌う「ケセラセラ」で家族としての「生」で「となりの山田くん」は終わる。今の時代に当てはめた山田家ってどんな感じだろうか?毎日サビ残のたかし、バリバリキャリアを積むまつ子、老人ホームに入れられるしげばあちゃん、Hikakinの動画を見るのの子にXvideosでマスをかくのぼるっていうところだろうか?まぁこれはこれで昭和の家族像は完全に死に絶え新しく2010年代の家族の形なのだろう。『となりの山田くん』が公開された99年にはスマホも動画サイトもSNSが登場するなんて想像もしていなかった。まぁそれがラストの歌詞に出てくる「未来は見えない。お楽しみ」ということなのだろう。2030年の家族像なんて誰にもわからない。

田渕竜也のTwitter

ついったウィジェットエリア