第16回もう一度まなぶ日本近代史~功山寺挙兵、不死鳥の長州~
禁門の変に敗れ、朝敵となってしまった上、下関事件の報復として英仏米蘭の連合艦隊にボコボコにされた長州に、今度は長州征討軍が迫ります。
なかなか決まらない征討軍総督
孝明天皇より幕府に長州征討の勅令が下り、長州は朝敵となったわけですが、征討軍の進撃はもたもたしていました。(もたもたしている間に、四国艦隊下関砲撃事件が起こっています。)それには、理由がありました。長州征討が決まったものの、誰が総督となって長州に進軍するかが、なかなか決まらなかったのです。
戦争をするとなると、戦費がかかりますし、人も死にます。そんなのは、まっぴらごめんだということで、諸藩はほとんどやる気がありませんでした。それほど、この時期の幕府の権威は失墜していたのです。幕府としては、長州征討で権威を回復したいところだったのですが、逆に幕府に対して不満を募らせる結果となってしまいます。
西郷の罠
最終的に長州征討軍総督を引き受けたのは、尾張前々藩主徳川慶勝でした。尾張藩主の父で、藩の実権は掌握しているという、尾張版島津久光といったような感じです。ちなみに京都守護職で会津藩主の松平容保、京都所司代で桑名藩主の松平定敬は慶勝の弟です。
徳川慶勝も最初は長州征討軍総督を固辞していましたが、幕府があまりにしつこいので全権委任を条件に仕方なく引き受けています。総督として大坂に入った徳川慶勝の前に一人の男が現れます。長州征討軍に参加した薩摩の西郷隆盛です。
西郷は、やる気のない慶勝に「戦わずして、さっさと終わらせる」方法を耳打ちするのです。慶勝はこれに丸乗りし、西郷を参謀として全権委任します。実はこれは、西郷の幕府に対する罠だったのです。
幕府としては、諸藩を率いて長州をフルボッコにすることで、幕府の権威を見せつけようと考えていたわけです。しかし、西郷は長州に寛容な処分を下すことで、お金もかからない、人も死なない、さらに幕府の権威回復もさせないという作戦だったのです。京都政局を牛耳る一会桑政権に排除されつつある薩摩は、幕府との協調路線を諦め、牙をむき始めたのです。
戦わずして終わる長州征討
西郷は、岩国藩主の吉川経幹の元へ訪れ、長州の降伏条件を話し合います。岩国吉川家は、長州毛利家の分家にあたり、長州との仲介役として選ばれました。そこで決定した長州の降伏条件は、以下の通りです。
1.禁門の変で上洛した急進派三家老の切腹、四参謀の斬首
2.三条実美ら五卿(七卿落ちの生き残り)の追放
3.藩主親子の謝罪文提出
4.山口城の破却
長州はこの条件を受け入れ、交渉はほぼ西郷の思惑通りに進みました。そして、長州征討軍は撤兵、解散し、長州征討は戦わずして終わりを告げるのでした。
正義派VS俗論派
長州征討を巡り、長州では藩論が2つに分裂していました。上層部を中心とする保守派は、朝廷や幕府に徹底的に恭順し、藩の存続を第一に考えようという「純一恭順」を唱えます。一方、高杉晋作や桂小五郎といった尊攘派は、武装解除はせず、恭順しているかのように見せかけて、再起を図ろうとする「武備恭順」を唱えます。教科書などでも、前者のことを「俗論派」、後者のことを「正義派」と書いてあるのですが、こういう呼び方をしだしたのは高杉晋作です。保守派が自分たちのことを俗論派と呼ぶわけがないので当然ですが、自分たちのことを正義派と呼ぶ高杉には脱帽です。
正義派は一定の支持は集めますが、元はといえば正義派のせいで3タテ、この惨状ですから俗論派が圧倒的に優勢でした。さらに正義派の井上馨が襲撃され重症を負ったり、仲介役となっていた周布政之助が暗殺されるなど俗論派は勢いを増していきます。高杉は、奇兵隊を預かる山県有朋などを誘い、盛り返そうとしますが、あえなく反対され、北九州に亡命しています。
結局、俗論派が政権を奪い返し、西郷の要求を受け入れることになったのです。しかし、高杉らはまだまだ諦めたわけではありませんでした。
功山寺挙兵
俗論派による「純一恭順」が敢行されてしまうと、もはや再起不能に陥ると考えた高杉晋作は、下関に戻り、藩内クーデターを呼びかけます。しかし、奇兵隊の山県有朋をはじめ、諸隊は圧倒的な戦力差に無謀であるとまったく乗り気ではありませんでした。挙兵決行日、集まったのは伊藤俊輔(博文)の力士隊、石川小五郎の遊撃隊のわずか84名でした。
高杉は、半ばやけくそで挙兵を決行します。(このとき遺書を残しています)なんとか下関新地会所の襲撃に成功すると、井上馨や品川弥二郎らが次々と駆けつけます。最後に山県有朋も立ち上がり、俗論派と戦います。
山県らの協力を受けたところで、まだまだ俗論派の長州正規軍との戦力差は激しく、苦戦を強いられますが、士気の違いなのか謎の連戦連勝を繰り返します。幕府も高杉らの動きに気付かず、長州征討軍を撤兵してしまったため、奇跡の大逆転で高杉ら正義派が再び、政権をもぎ取ることに成功したのです。
こうして、高杉は無謀と思われたクーデターに成功し、いよいよ倒幕へと動き出していくのです。この無謀な挙兵に一番最初に協力した伊藤博文が、後に一番の権力を握るというのは腑に落ちるというものです。
西郷は大坂で勝海舟と会談し、その影響を受けて、長州の寛容な処分を決めたといわれています。
後に二人の会談が場所を江戸に移して再現されることになります。
次回、日本史で最も人気のある人物のひとりがいよいよ登場します。