第17回もう一度まなぶ日本近代史~薩長同盟、回天維新へ動き出す~

文:なかむら ひろし

 長州征討で恭順の意思を示したはずでしたが、高杉晋作らのクーデターにより再び立ち上がった長州が、倒幕へ向けて動き出すことになります。今回は、いよいよ薩長の接近について進めていくのですが、その前に、前々回やった四国艦隊下関砲撃事件のその後についてから見ていきましょう。

賠償金を押し付けられる幕府

 下関事件の報復で英仏米蘭の艦隊にフルボッコにされた長州は講和を行います。その代表に選ばれたのが高杉晋作でした。本来は、もっと偉いさんがいくべきなのですが、「お前らが仕出かしたことなのだから最後まで責任を持て」ということなのでしょう。下っ端の高杉が代表というのもあれなので、高杉は「僕は家老の養子で宍戸刑馬という者です」と言って講和に出席しています。
 四国との講和で高杉は「あなた方の言い分はもっともですが、幕府の命令に従っただけで長州はまったく悪くありません」と言って、関門海峡の封鎖はやめるが賠償金は幕府に請求するように訴えます。四国としても、こちらの要求は呑んでくれたし、どうせ長州に賠償金の支払い能力はないから幕府にたかろうという具合で引き上げていきました。

違勅問題を蒸し返される幕府

 長州から引き上げた四国艦隊は、次に将軍のいる大坂にやってきます。そして、いまだ解決していない通商条約の勅許、先の賠償金の請求と賠償金の減額をえさに早期の兵庫開港を求めます。違勅調印に負い目を感じている幕府としても解決しておきたい問題であったため、一橋慶喜は自身の切腹も示唆するなどして、孝明天皇の説得になんとか成功します。しかし、兵庫開港については御所から近いこともあり、認めさせることはできず、賠償金を受け入れます。兵庫開港問題は、この後も懸念事項として残ることになりました。
 このとき、兵庫開港を認めさせることができなかった代わりに、関税を引き下げる改税約書を結んでいます。それまで関税率は、平均で20%でしたが一律5%と変更されました。以前、幕末の貿易の特徴として、最初は輸出過多で後に輸入過多ということを書きましたが、この改税約書によって関税率が引き下げられたため、輸入が増えていくことになるのです。
 あと賠償金についてですが、幕府は結局半額ほど支払うことができず、明治政府が受け継ぎ完済しています。ちなみにアメリカは、日本を恐喝して不当な額を得たとして、一部を返還しています。このシリーズで何度も言っていますが、アメリカは結構優しいところもあるのです。

坂本龍馬という男

 次に、今回の本題である薩長同盟の仲介役として働いた坂本龍馬について見ていくことにしましょう。
 龍馬は、当初武市瑞山の土佐勤皇党に参加しており、そのときに長州の尊攘派との交流がありました。その後、勝海舟の弟子となり、開国論者に転向すると、勝の私塾である海軍塾で学び、勝の提言で設立された神戸海軍操練所にも参加しています。しかし、池田屋事件や禁門の変に海軍塾の塾生が参加していたことが問題となり、勝は軍艦奉行を罷免され、神戸海軍操練所は閉鎖という事態に陥っています。
 その頃、土佐では勤皇党の粛清が始まっており、参政吉田東洋暗殺の嫌疑をかけられていた龍馬の身を案じた勝は、江戸に帰る前に龍馬らを薩摩に預けます。薩摩は、龍馬の持つ航海技術を重要視し、龍馬の設立した日本初の株式会社といわれる「亀山社中」に出資しています。
 このようにして、龍馬は薩長とのコネクションが出来上がっていったのです。

薩長同盟

 龍馬の盟友である中岡慎太郎は、同じく土佐勤皇党に参加しており、八月十八日の政変の後、身の危険を感じ、長州に亡命していました。長州亡命後には、禁門の変や四国艦隊下関砲撃事件で長州と共に戦っています。長州征討後、高杉がクーデターに成功すると、中岡は雄藩連合による武力倒幕を志すようになります。そして、倒幕を目指す長州と一会桑により排除されつつある薩摩をどうにか協力させることができないかと龍馬に持ちかけ、以後二人は薩長の仲介に奔走するのです。
 龍馬は、犬猿の仲である薩長を結びつけるため、利害の一致を利用します。倒幕を目指す長州は、武器が欲しくて仕方ありません。しかし、武器購入には幕府の許可が必要であったため、当然許可が下りず、手に入りません。そこで、龍馬は薩摩名義で武器を購入し、それを長州に横流しすることを提案します。また、薩摩は凶作で米が不足していたので、米のある長州が薩摩に米を送れば、一方的に恩を売る形にならないと考えたのです。薩長はこの提案に賛成し、亀山社中が取引や輸送を担当します。龍馬は、イギリス貿易商人グラバーから近代兵器を薩摩名義で購入し、長州に横流しするという作戦に成功します。
 その後、薩長会談のセッティングを行いますが、長州の薩摩への不信感は強く、お互いのプライドが邪魔をしたこともあってなかなか同盟には至りません。龍馬は、長州に頭を下げさせるのは酷だと考え、なんとか薩摩の方から頭を下げて、同盟をお願いする形にして欲しいと西郷隆盛を説得します。西郷はこれを受け入れ、ようやく薩長同盟が成立するのです。

薩摩の思惑

 薩長同盟が結ばれた時点で、薩長が武力倒幕のために手を取り合ったというイメージが強いのですが、実はこの時点では薩摩としては保険をかけたという程度のものでした。幕府の権威が失墜したとはいえ、徳川将軍家は日本最強です。まともにやり合って勝てるという確信などありません。薩長同盟は、この後の長州と幕府の戦いで、長州が負けるようなことがあれば、薩摩は長州を切り捨てることも可能という下っ端同士の口約束レベルのものだったのです。
 また、この時点では倒幕というのも微妙に違って、一会桑政権の排除が目的という方が正しいのです。とりわけ、一橋を軍事力で支える会津と桑名をなんとかしたいというのが当面の課題だったのです。
 同盟というものは、結んでも機能させなければ意味がありません。また、同盟を結んだら対等の関係になるというものではありません。現在の日米関係を想像していただけると良いでしょう。どちらかの立場が上で、意義なしと考えたら破棄されるのが同盟なのです。

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誰もが無理だと諦めることにもチャレンジする坂本龍馬の基本理念です。
龍馬にとって、やらなければならないことをやらない理由など、すべて細かいことなのです。
しかし、やらなければならないことをやるためにはどんな細かいことにも真剣に取り組むのです。

 次回、反省したはずの長州がまったく反省していないことに怒った幕府が再び長州征討を行います。しかし、薩摩の支援を受けた長州が火を吹きます。

なかむら ひろしのTwitter

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