第18回もう一度まなぶ日本近代史~第二次長州征討、長州の快進撃~

文:なかむら ひろし

 薩長同盟を結び、倒幕に向けて着々と準備を進める長州に、幕府が再び長州を討たんと動き出します。最初の長州征討でもグダっていた幕府ですが、本当に大丈夫なのでしょうか。

脅しに屈しない長州

 幕府は、長州征討で長州を降伏させましたが、長州への処分はまだ行われていません。長州藩主親子に江戸に出頭するように命じますが、長州側はこれを拒否します。すでに長州では、高杉晋作によるクーデターで幕府に恭順の意思を示していた俗論派は一掃されていたのです。
 そこで一橋慶喜は、将軍を上洛させ、軍事力でプレッシャーをかけることにします。これには、将軍を江戸の幕閣から引き離し、自らの保護下に置いておくという目的もありました。しかし、長州は幕府の言うことをまったく聞きません。将軍が大軍を率いて大坂城に入ったものの、長州への処分はまったく進まず、お金ばかりがかかり、兵士の士気は下がっていきました。
 この事態を打開するため、慶喜は第二次長州征討の勅許を得ようと動きます。薩長同盟に基づき、薩摩の大久保利通らはこれを阻止すべく妨害しますが、慶喜は勅許の獲得に成功します。しかし、幕府が長州処分を進めている間に、面倒なことが起こります。前回やった英仏米蘭の艦隊が兵庫沖に現れて、通商条約の勅許と兵庫の早期開港を求めた事件です。これをなんとかさばいて、ようやく長州征伐に取り掛かることになります。
 幕府は、広島で長州の代表と会談を行います。最初の会談の際、新撰組の近藤勇らが幕府代表の永井尚志についていき、視察を行っています。幕府と長州は、何度も会談を行いますが、長州は言うことを聞きません。幕府としては、軍事力でプレッシャーをかければ、戦わずして降伏してくるだろうと読んでいたのですが、結局最後通牒を出しても言うことを聞かないため、上げた拳を下ろすことができず、ついに進撃することになるのです。

征長軍と長州軍

 幕府は長州に進撃することになったわけですが、第一次長州征討の時と同様に諸藩は出兵に反対します。さらに商人までも、ただでさえ物価高に苦しんでいるのに戦争をすると兵糧の米が買い占められ、物が壊れて、インフレが激化するとして反対します。結局、幕府の命令に逆らえず、諸藩は嫌々ながらも出兵することになるわけですが、いちばん頼りにしていた薩摩は、薩長同盟に基づき、出兵を拒否します。薩摩は、幕府に敵意は示すものの、長州とともに幕府と戦うということまではしません。まだ、長州に保険をかけている段階です。ただ、長州としては、敵に回すといちばんの脅威になる相手が消えたわけですから、それだけでも非常に助かるというものです。
 長州の方は、正義派が政権を奪い返すと、亡命した高杉から桂小五郎は政治、大村益次郎は軍事の実権を譲り受けます。そして、桂は薩長同盟、大村は軍制改革に注力します。桂が薩摩と結んで近代兵器を手に入れ、大村が兵に西洋式近代戦術を叩き込み、兵士の士気も高揚しています。征長軍とはまったく異なり、やる気満々で戦いに挑むことになるのです。

第二次長州征討

 1866年、征長軍が周防大島へ砲撃を開始したことで第二次長州征討が始まります。長州目線からだと征長軍が長州の4つの国境から進撃してきたことから四境戦争という言い方をします。
 元々、戦術的に放棄する予定で手薄だった大島での戦いは、当初征長軍が優勢に進めます。しかし、高杉晋作の夜襲が成功し、大島を奪い返すと、征長軍は撤退していきました。その他各地でも征長軍は敗走を続け、長州領に攻め入ることができず、劣勢を強いられます。そればかりではなく、逆に小倉城に攻め込まれると、幕府軍は小倉藩に援軍を送ることもせず、傍観するという酷い態度を示し、これを見た北九州の諸藩はやる気をなくして、撤兵してしまいます。征長軍は、所詮寄せ集めの兵で、やる気がなかったり、やる気があっても一枚岩でないため、周りが協力してくれないというちぐはぐな戦い方しかできず、戦術や装備も時代遅れであったため、長州との差は歴然としていたのです。

将軍家茂の死

 征長軍にとって思ってもみないほど戦況は不利に展開し、もはやどうすることもできない状態へと陥っていきました。そんな中、大坂城にいた将軍徳川家茂が病死してしまいます。これを名目に征長軍は、撤兵を開始します。幕府は勝海舟を送り、長州の広沢真臣、井上馨と講和を行い、停戦の詔勅を得ると停戦が合意されました。
 第二次長州征討で返り討ちにあった幕府は、権威の失墜が決定的なものとなり、薩長同盟は本格的に機能していくことになります。また、先にも触れた戦争による米の買占めによる米価高騰が起こり、各地で一揆(世直し一揆)や打ち壊しが頻発し、民衆レベルでも幕府への不信感が増大していきました。

家康以来の英傑

 徳川家茂の薨去により、15代将軍は一橋慶喜しかいないという流れになるのですが、慶喜は徳川宗家の相続は認めるも、将軍職は固辞します。慶喜は、大奥などから毛嫌いされており、反対派を説得して思い通りに動けるようにしてくれるなら仕方なくだけどなってあげてもいいよという態度を取るのです。こうして、5ヶ月もの空白期間を経て、15代将軍に就任します。
 慶喜は、会津、桑名と連携し、孝明天皇の後ろ盾を武器に権力を振るってきたわけですが、最終的には予算や人事を掌握する幕閣に頼ろうという考えになり、それまで対立関係にあった幕閣との連携を行うようになります。最初は「官僚政治の打破」と言っておきながら、最後は官僚にすがりつくという姿は、民主党のようなものですといえば、わかりやすいのでしょうか。

慶応の改革

 将軍となった一橋慶喜改め徳川慶喜は、小栗忠順ら改革派幕閣と協力し、イギリスが薩長についたことに危機感を覚えたフランス公使レオン・ロッシュの援助を受けて幕政改革を進めます。これが江戸時代最後の改革、慶応の改革です。主な内容は、以下のようなものでした。

1.「五局体制」の確立
それまで老中は、政治や軍事を問わず、すべての分野を合議によって進めてきましたが、老中をそれぞれの分野に専任させ、老中首座がその統制を行うという内閣制度のような形を作りました。

2.陸軍軍制改革
フランス軍事顧問団を招き、日本最大の西洋式軍事組織を作り上げました。

3.横須賀製鉄所の建設
後に造船所に拡張され、軍艦の製造を行う予定でしたが、幕府が倒れたため、明治政府が引き継ぎ、現在は在日米軍基地として利用されています。

 他にもいろいろな改革に着手しましたが、途中で幕府が倒れたため、頓挫してしまいました。後に明治政府が同じような改革を行っており、解決策はすでに出ていたのです。問題は、徳川家主導かそうでないかという違いだけだったのです。

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一部の歴史好きの方から、やたら評価の高い小栗忠順。
ズバズバものをいうタイプで、上司に嫌われてすぐに役職を罷免されたり、自分の思い通りに働かせてもらえないとすぐ辞任しちゃうような嫌な感じのエリートだったようですが、大変優秀な人物だったので、また何かしらの役職を与えられるというループを繰り返していました。
10年ぐらい前にテレビ番組で、糸井重里氏が「徳川埋蔵金」を探していましたが、この人が江戸城のお金を隠し持っていたという都市伝説からきたものなのです。

 次回、常に慶喜の味方だったあのお方が・・・徳川慶喜が最後の逆襲に出ます。

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