シネマフィリアvol.18 存在する証明と愛が狂気に変わる瞬間『ルビー・スパーク』
恋愛というものは正直面倒くさい。自分と違う他人である異性に対して金銭、ファッション、ライフスタイル、交友関係といった生活を極限まで気を使っても、「別れ」という両者が破綻するケースの方が多いからだ。それも破滅的なケースがほとんどと言ってもいいだろう。「もうこんな思いするならやっぱり自分の好きなことにしか力を入れないゾイ!」、「やっぱり二次元が正義だゾイ!」って思うあなたは今回、紹介する映画『ルビースパーク』に登場するカルビンという主人公と同じです。これからもあなたは異性というものにずっと中指立てて生きて行くことになるでしょう。ようこそ陰キャの世界へ。
まぁ、そうやってキッパリと自分の世界に入りびたって妄想の世界に行けるならならそれで良いではないか。嫁が画面から出てこなくたって良いではないか。だって瀬戸内寂聴みたいなあんなクソ坊主の「恋愛の醍醐味は不倫なんですよ」みたいなつまらん恋愛論を説かれるやつになるよりはマシだろ?自分の「恋愛」という経験談からマウントを取ってくる自称恋愛マスターの方がよっぽど面倒くさい。西野カナの『トリセツ』なんて付き合ってられねぇよ。自分の力では生きていけない他力本願な「自分はメンヘラですよ」って言ってるようなもんだ。この映画は多分そういう自身満々の自称恋愛マスター系とか自称サバサバとかぬかしてる人にはとことこん嫌われる映画だと思う。だって彼ら彼女らには「妄想力」がないのだから。だからカルヴィンが気持ち悪く見えてしまう。
大筋のあらすじを語っていくと「若くして天才作家として華々しくデビューした主人公・カルヴィンはその後、10年にわたりスランプに陥ってしまう。そんな彼は夢で見た自分の理想とする彼女のルビー・スパークを主人公にした小説を書き始める。するとある日、家の中で目の前にルビー・スパークが現れ、一緒に生活を始めて行く」というなんだか一時期流行った異世界からやってくる押掛け女房系ラノベみたいな話だけど、これが大体のストーリーだ。
主人公で天才作家ともてはやされていたカルヴィンはとにかく人間関係を築こうとしない。家や家族がいても本を読んでばっかで関わろうとしない。そんな天才作家と呼ばれた彼がスランプの中、夢に登場する彼女がヒロインであるルビー・スパークだ。ルビー・スパークはカルヴィンとはほぼ真逆と言っていいぐらい社交的で少しヤンキー、ギャルにビッチが入っていて若干不思議ちゃん。まぁ、オタクが妄想するオタに優しい黒ギャルみたいなもんだよね。一応この主人公カルヴィン、モテないクソ童貞みたいな雰囲気だけど彼女はいたんだってさ。でもその彼女に捨てられたトラウマを抱えた典型的な初めて付き合ったあとなかなか彼女作れない女性不信型の妄想人間。というより異性と付き合うことに興味ある素ぶりはするけど実際はそうじゃない。彼の中にあるのは自分を天才と認めてもらいたい承認欲求の方が強いのである。だからカルヴィンは陰キャであっても非モテ男性ということではないのである。
妄想の中で理想の彼女の設定から何から何まで完璧にまでに作り上げたカルヴィンはど変態だ。だって自分の妄想で理想の彼女が現実に飛び出てくるぐらいに精密に設定して、存在させ、さらにこの現実世界で存在を維持することができるのだから。そもそもこの現実世界に存在させるということはどういうことなのか?かつてデカルトが言った「我思う故、我あり」は「この世界の認識は全て嘘であるかもしれない。しかしその嘘を疑っている私がいるのだからそれが真理だ」と説いた。幻影を見せる悪魔がいるとするならそれを見せる存在がいないと成立はしない。例えばあるオタクが脳内から出てこない嫁Aを現実世界と変わらないぐらいにバックグランドつけて、自分の目の前に「脳内嫁Aがいる」という妄想をしたと仮定をしてみよう。全く現実世界の人間と妄想上の人間とでは差異はないのではないだろか。「実体がなければ、実体を妄想して補完するばいい」自分が疑いようのない存在となっていれば、その妄想上の人物は実際の世界に存在することになるのではないだろうか?ある意味、天災を神話という形で神々をキャラクター化したり、神という抽象的な存在を彫刻という形で残してきたギリシャ人と同じだよね。
ルビー・スパークはカルヴィンが「実際に存在する理想の彼女」という設定で作り出したキャラクターだ。そして彼は彼女を夢の中で惹かれてしまった結果、創造物が疑いようのない真理となって、現実世界に存在できるようになった。これってラブドール3人と暮らすおじさんと同じなんですよ。このおじさんの中では周りが何と言おうと一緒に暮らすラブドールは疑いようのない家族である。そこにあるのは人間と変わらない「家族愛」が存在しているのである。
それにしてもこのカルヴィンってどうも「性」という部分に関わるとそこを通り抜けてしまう。だって自分の理想の彼女がデスノート張りにタイプライターで打ち込んだことが彼女の身に現実に起きるとしたらどうなる?まぁ、想像しうるのは『対魔忍」みたいなあんな感じになったり、しょうもないエロ同人ぐらいのアヘ顔ダブルピースになってしまうのではないだろうか?しかしカルヴィンは自分の物語を使って性的行為に使おうとする気はさらさらなかった。そんで一旦は封印する。
でも理想の彼女とはいえずっと一緒にいると段々とダメなところに目が行くようになる。人間はそういう問題点を指摘していくことで快楽を得られるようになっている。だってその瞬間は正義の立場になるのだから、その立場にいる人はバイキンマンにアンパンチを食らわしているアンパンマン状態である。
一度、こういう正義のアンパンチをしてしまうと人間、何度も同じことを繰り返す。典型的な例でいうとほらアホみたいな年上の先輩だか何だかのありがたいお説教の後に「あなたのことを思って」。これがもう正義に酔いしれている証拠なのである。ある意味、麻薬みたいなもんだよね。だから一度嫌われるとずっと嫌われ続けるんだよね。これって「いじめ」という行動でも同じ。いじめる側は正義のために自分たちの集団を乱すものにアンパンチを食らわしている。その正義の味に酔いしれてしまった結果、いじめなどの暴力に発展するのである。みなさんも知らない間にそんな正義のアンパンチを誰かに食らわせているかもしれない。
カルヴィンの場合、自分にはないルビーの社交的な部分に目がいってしまった。その結果、自分からだんだんと離れて行くルビーを離したくないと思うあまり、封印していた物語をタイプライターを使ってルビー・スパークの設定をいじくる結果となった。これも「あなたのことを思って」と同じだよね。愛、故の狂気と言ってもいいかもしれない。いや、これは愛だったのか?
終盤のルビー・スパークに対してタイプライターを使いまくるシーンがあるんだけど、これが無理やり自分を「天才」と褒め称えさせたり、無理やり服を脱がせたり、無理やり動物のポーズを取らせるなのだけど、これがカルヴィンの最大限のルビー・スパークへのレイプ行為であり、ルビー・スパークを思うがままに自分の欲求を満たたせることが、最大限の彼女へのアンパンチだったのではないだろうか?
まぁいろいろと話が難しくなったけど、この映画の結論としては始まる愛も終わってしまう愛も結局、手を加えても破綻してしまってやっぱり自然な流れがいいよねっていうのがこの映画の答えなのではないだろうか?
個人的にはすごく好きな映画なんだけどね『ルビー・スパーク』。ルサンチマンを抱えている人におすすめする映画です。でもこの映画に嫌悪があるルビー・スパークちゃん可哀想っていうなら、同じ監督で『マイ・リトル・サンシャイン』、もしくはSmashing Pumpkinsの『Tonight』をおすすめする。
あと余談だけどカルヴィンとルビー・スパークの俳優と女優の人は今も付き合っている本当のカップルみたいですよ。