第19回もう一度まなぶ日本近代史~平和に解決?大政奉還~
満を持して15代将軍となった徳川慶喜は、それまで対立関係にあった幕閣と手を組み、慶応の改革を行っていきます。しかし、将軍就任直後に思ってもみなかった事件が起こってしまいました。
突然の崩御
徳川慶喜が将軍になった1ヵ月後、孝明天皇が天然痘により崩御してしまいます。孝明天皇と幕閣という2つの後ろ盾を得た慶喜は、最強状態だったのですが、その一角である孝明天皇の崩御は、かなりの痛手となりました。明治天皇が即位すると、朝廷内でも親慶喜派と反慶喜派に割れ、騒動となっています。
孝明天皇の突然の崩御は、あまりにもアンチ慶喜にとって、タイミングがよすぎたため、当時から暗殺説が流れていましたが、本当のところはいまだにわかっていません。
へこたれない慶喜
孝明天皇の崩御で大きな後ろ盾のひとつを失った慶喜でしたが、まだ幕閣という後ろ盾があると、諦めません。バリバリの攘夷論者であった孝明天皇が崩御したことで、兵庫開港問題を解決してしまおうと動き出します。慶喜は、勝手に列強と兵庫開港を約束し、外交権は幕府にあることを国内外に対して宣言したのです。
しかし、まだ勅許は得られていません。慶喜は、勅許を得るために朝廷に掛け合うことになるのですが、薩摩は黙って見過ごすはずはありませんでした。
四侯会議
薩摩は、島津久光と松平慶永、山内豊信、伊達宗城を集め、四侯会議を組織します。(松平、山内、伊達の3人に島津斉彬を加えた4人は、幕末の四賢侯と呼ばれるのですが、島津斉彬はすでに亡くなっていたので、この場合、弟の久光を加えて四侯会議と呼びます)これは、以前出てきた参預会議のリベンジのようなもので、4人の合議によって、幕府に政策提言をしようというものです。
慶喜は、早く兵庫開港の勅許を得ようとしますが、四侯会議は「長州処分がまだ終わってないだろ!こっちが先だ!」と妨害し、幕府を困らせようとします。島津久光は、幕府が打ち出した長州処分案を撤回し、寛大な心で長州を許してやろうと提案します。しかし、慶喜はそれでは幕府の面目がなくなる上に、薩摩に主導権を握られてしまうため、これに反対し、あくまで列強との約束の期日が迫った兵庫開港問題が先だと譲りません。四侯会議も参預会議と同様に慶喜と久光の対立が激化し、うまく進みませんでした。
元々慶喜擁護派だった山内豊信は、仮病で会議を休むようになり、松平慶永は、両方を同時に進めようと提案しますが、薩摩はこれにも反対します。最終的には、話にならないと島津久光も出てこなくなり、参預会議よりも早いたった1ヶ月で会議は崩壊してしまいます。
結局、慶喜は脅威の粘りで朝廷を説き伏せて、兵庫開港と長州処分の撤回(長州寛典論)の勅許を得ることに成功します。これで幕府の重大な懸念事項であった2つの問題は解決されることになったのです。
会議崩壊後の薩摩と土佐
参預会議、四侯会議ともに慶喜にしてやられた薩摩は、公武合体から発展していった徳川家と雄藩による合議で政治を行っていこうという公議政体論を諦め、武力倒幕に向けて動き出していくことになります。大久保利通らは、反幕府を訴える公卿、岩倉具視と手を組み、討幕の密勅を得るために工作を進めていきます。
一方、土佐はあくまで慶喜擁護の態度は崩さず、公議政体論に基づいて動いていきます。土佐がこれほどにまで徳川を擁護するのは、山内家が関ヶ原の戦いで東軍につき、土佐を与えられた徳川恩顧の家であったためです。外様の薩摩との違いは、ここにあったのです。
大政奉還論と薩土同盟
考えが異なる薩土ですが、この頃に2つの同盟が結ばれています。薩長同盟は有名ですが、薩土の間にも同盟が結ばれていたのです。
土佐の板垣退助は、藩論に反して早くから武力倒幕論者でした。そんな板垣を中岡慎太郎が仲介し、薩摩の西郷隆盛らと引き合わせます。そこで板垣は「もし薩摩が幕府と戦争をすることになったら、土佐の軍部を掌握する私が、藩論に関係なく、藩兵を率いて薩摩に加勢する」と約束します。(薩土密約)しかし、これは板垣が西郷に勝手に行った口約束にすぎず、この段階で必ず履行されるかどうかはわかりませんでした。板垣は、このことを山内豊信に報告し、土佐の軍制改革を行っています。山内豊信は、武力倒幕には反対していましたが、保険をかけたのです。
一方、板垣の盟友である同じく土佐の後藤象二郎は、独自の路線で薩摩との提携を進めていました。後藤は、坂本龍馬から「徳川が朝廷から授けられていた政治の大権を返上する」という大政奉還論を聞かされ、「そいつは名案だ」と大政奉還の実現に向けて動きます。
大政奉還は、武力倒幕を行う大義名分がなくなり、徳川家は存続でき、平和的な形で公議政体論へと移行できるという山内豊信の考えと合致しており、土佐の藩論として採用されました。後藤は、大政奉還論を唱える土佐が孤立しないように、薩摩との提携を目指します。
しかし、薩摩は武力倒幕を目指していたため、この大政奉還論には乗るはずもありません。そこで後藤は、薩摩に「あの慶喜が大政奉還を受け入れるはずがない。そうなれば、武力倒幕の大義名分ができるではありませんか」と言って、薩摩と提携を結ぶことになります。(薩土盟約)
後藤は、早速これを山内豊信に報告しますが、土佐藩兵を上洛させ、大政奉還を建白するという薩摩との約束に反対されてしまいます。「藩兵を送るとか脅迫じゃないか!出兵の必要はなし!」と言われてしまうのです。薩摩との約束を果たすことができず、薩土盟約は早々に解消されてしまいました。
大政奉還の建白
薩土盟約は解消されてしまいましたが、後藤は大政奉還の建白を諦めてはいませんでした。盟約解消後も薩摩に大政奉還の建白を行うことへの了承を得ようと画策します。実は、薩摩は長州や新しく同盟に加わった安芸と一緒に武力倒幕の兵を結集させることを事前に決定しており、土佐の提案する大政奉還論は時間的に無理だという理由で、盟約を解消していたのです。しかし、後藤の説得が功を奏し、ついに薩摩の了承を得ることに成功します。そして、後藤は山内豊信を通して大政奉還の建白書を老中に提出するのです。
一方、長州、安芸と出兵の計画を進めていた薩摩に問題が起こります。島津久光が武力倒幕反対派の影響を受けて、急に薩摩の出兵に難色を示しはじめてしまったのです。薩摩がいつまでたっても来ないので、長州は出兵の延期を決定します。その後、薩摩もようやく出兵を開始し、遅れて到着するのですが、長州は「もう延期するって決めちゃったよ」とバタバタしていました。
時流に合わせて、態度をコロコロ変えることから「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」と志士たちから馬鹿にされていた山内豊信でしたが、その行動原理は常に徳川擁護だったのです。
また、勝ち馬に乗るためには、なりふり構わないということも藩主として大事なことなのです。
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後藤象二郎の大政奉還の建白に、徳川慶喜は意外な反応を示します。慶喜が薩長に罠を仕掛けるのです。