第20回もう一度まなぶ日本近代史~徳川をぶっ壊せ、王政復古の大号令~

文:なかむら ひろし

 前回やった四侯会議や薩土同盟は、試験で問われることはほとんどないのですが、四侯会議に関しては流れを押さえてもらうために一応取り上げました。薩土同盟に関しては、別に必要はなかったのですが、後の話に少し関連してくるので、こちらも一応取り上げました。
 今回は、大政奉還の建白を受けた徳川慶喜がどのような反応を示したのかと、武力倒幕を目指す薩長がどうなっていったのかを見ていくことにしましょう。

討幕の密勅

 武力倒幕を決意した薩長と安芸は、直前にバタバタすることもありましたが、なんとか藩兵を京都、大坂に集結させるに至っていました。ただし、この兵を動かして武力倒幕を行うには、その正当性が必要です。そこで、薩摩の大久保利通らは、岩倉具視と連携して朝廷工作を行っていきます。
 そして、幕府と戦争するための大義名分として、討幕の密勅を得ることに成功します。薩長の武力倒幕の準備が整い、いよいよ討幕に向けて動き出そうとします。しかし、徳川慶喜という男は、一筋縄ではいかないのであります。

慶喜の罠

 薩長が討幕の密勅を得るために奔走しているとき、徳川慶喜は意外な行動を取ります。なんと大政奉還の建白を受け入れたのです。慶喜が朝廷に大政奉還の申し出を行ったのは1867年11月9日で、奇しくも薩長に討幕の密勅が下った同日でした。
 大政奉還を受け入れたことで武力倒幕の口実を潰すことになるわけですが、受け入れたといっても実は政権を返上する気などさらさらありませんでした。政権を返上したのに、政権を返上する気がないというのは、意味がわからないと思います。これは慶喜の罠だったのです。
 慶喜は、朝廷に政権を返上したところで、朝廷には政権担当能力などないと考えていました。実際に朝廷で政権を運営できる能力を持つものは、岩倉具視や三条実美ぐらいしかいませんでした。そこで新体制になっても、日本最大の軍事力と経済力、さらに幕閣という人事も抱える徳川家に頼ってこざるを得ないだろうと読んでいたのです。「やれるもんならやってみな」という態度です。そうなれば、新体制においても徳川が実権を握り続けることができるわけです。

列藩会議と薩長の懸念

 慶喜の大政奉還が認められると、朝廷はお馴染みの島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城など雄藩の藩主やそれに準じる人物に上洛を命じ、列藩会議を組織し、新体制を発足させようとしていました。しかし、薩長や岩倉具視は、これに焦りを感じていました。
 列藩会議のメンバーは、依然として慶喜擁護派が多く、朝廷の上層部も慶喜擁護派で、位ばかりが高い、保身に走るような当事者能力のない公卿が多数を占めていました。このままでは、新体制においても徳川が主導権を握るのは明白です。大政奉還により、武力倒幕の正当性が失われた今、どのように事態を打開していくか、薩長は作戦を練るのです。

薩長のクーデター

 薩長や岩倉具視は、八月十八日の政変にならい、クーデターを起こし、慶喜擁護派の朝廷上層部を排除し、慶喜を加えない新体制を樹立することを目指し、動き出します。岩倉具視は、薩摩、安芸、土佐、越前、尾張の重臣を集めて、計画を明かし、協力を求めます。5藩は、これに同意し、軍事力を背景にしたクーデターを起こすことになります。ただ、慶喜排除に関しては明かしておらず、親藩である越前や尾張は、慶喜を新体制に組み込むつもりでした。

 このクーデターを起こす前に、朝議で様々なことが決定されています。

1.長州藩主親子の罪が許される
2.三条実美など八月十八日の政変から京都を追われていた七卿の罪が許される
3.謹慎処分となっていた岩倉具視の謹慎が解かれる

 朝議が終わったのと同時に、5藩は藩兵で御所を封鎖し、復帰したばかりの岩倉具視が「王政復古の大号令」を発するのです。

王政復古の大号令

 ここでは王政復古の大号令の中身について見ていきます。

1.慶喜の将軍職辞職を認める
大政奉還後に慶喜に将軍職の辞表も提出させていましたが、この段階で受理されています。「将軍職も辞めるとまで言ってるんだから許してやろうよ」という人がいたので、完全に潰せる段階になるまで受理しなかったのです。

2.京都守護職、京都所司代の廃止
京都に合法的に藩兵を置くことができる役職は、政局に影響を与え得るということで廃止しています。

3.幕府の廃止
4.摂政・関白の廃止
天皇親政を目指していたので、天皇に代わって政治を行うシステムは廃止しています。

5.三職の設置
総裁・議定・参与の三職を新設しました。

総裁-有栖川宮幟仁親王
最高職で定員1名。覚えていますか?徳川家茂に婚約者だった和宮を奪われた方です。

議定-徳川慶勝(尾張)、松平慶永(越前)、山内豊信(土佐)など
藩主や上級公卿がこの役職に就きました。

参与-岩倉具視、後藤象二郎(土佐)、福岡孝弟(土佐)、大久保利通(薩摩)、西郷隆盛(薩摩)など
藩士や下級公卿がこの役職に就きました。

 三職のメンバーを見ると長州がいません。これは、長州がついさっきまで朝敵だったため、仕方がありません。また、後に新政府で活躍する人は参与という下級の役職どまりで、まだまだ名前すら挙がっていない人が多数です。この段階では、まだ薩長が有利とは決して言えないのです。

小御所会議

 王政復古の大号令が発せられた同日の夜、新体制で初めての会議が開かれました。そこで議題となったのは、徳川慶喜の処分についてでした。
 山内豊信は、慶喜の出席していない場で、「欠席裁判のような形で処分を決めてしまうなんて酷いじゃないか」と抗議します。それに対して、岩倉具視は「天皇陛下のご意向なのにそんなこと言っていいのですか?」と言って、黙らせると終始会議の主導権を握ります。
 この会議で決定された慶喜の処分は「辞官納地」でした。「辞官」とは「朝廷の官位である内大臣に内定していたがこれを辞退する」ことで、「納地」とは「徳川の持つ領地をすべて返上する」ことです。ただ、松平慶永の説得で納地に関しては、「すべて」ではなく「半分」に軽減されました。

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謹慎処分を受けて、長らく政治の表舞台から遠ざけられていた岩倉具視。
アンチ徳川の数少ない有能な公卿であることから大久保利通らに頼りにされていました。
狡猾な慶喜に対する不信感は強く、徳川を徹底的に叩き潰すべきと、強硬論を訴えていました。

 徳川解体が進められていき、慶喜ももう終わりだなという様相を呈してきました。しかし、この男・・・まだ諦めはしません。

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