「ヤンキー」という地元に閉じ込められた存在
アイドルとヤンキー
アルファードにジェラートピケ、金髪、何か郊外のドンキホーテフルコースのようなものに興味を惹かれるものがある。そんなつい先日、吉澤ひとみさんが逮捕された姿の映像にはあまりにも深夜のドンキホーテフルコースすぎて衝撃を覚えた。だってかつてはアイドルの頂点に行った人だべ。事故、飲酒運転云々より乗ってる車がハマーとかベンツのGクラス、レンジローバーならまだしもアルファードという衝撃。そして着ている服も調べてみると5000円ぐらいのジェラートピケというワンピースみたいな服、みごとなまでの「マイルドヤンキー的」な出来栄えである。
まぁそこで思い介してみればモーニング娘。以前のアイドルはヤンキー文化だったことを思い出した。古くは中森明菜に石野真子、小泉今日子、工藤静香などいわゆる「ツッパリ」と言われていた時代だ。ライブには特攻服を着て集まったり、髪に剃り込みを入れたり、まぁ80年代は「ヤヌスの鏡」や「スケバン刑事」、横浜銀蠅などヤンキー文化が「ツッパリ」という形で可視化した結果、「ツッパリ」がトレンド的なファッション化したのもあるだろう。
それにしてもヤンキーファッションというものはユニークだ。リーゼント、サングラス、学ランやボンタン、パンチパーマ、ドカジャンや羽織、暴走族なら革ジャン・編み上げ靴に改造バイク、特攻服、鉢巻き、日章旗など様々な「強そう」「怖そう」に見せる要素が混ざり合い強引に一つにし、デコレーションしていくのがヤンキーファッションの真骨頂であり、そのファッションの目的は「目立つ」こと、自分をアピールすることが目的である。
キラッキラのラメを貼りたくって使いにくそうなケータイ、一昔前にいたギンギラにした改造したハイエースに後部座席の窓に「倖田組」とか浜崎あゆみの「A」のロゴステッカーを貼るなんかも行為も実用性や機能性を高めるわけでもなく、その倖田來未や浜崎あゆみのファンというグループの帰属意識を表明しているあたりすごくヤンキー的だと思う。
しかし時代である。今時、そんな特攻服を着て、リーゼントで横に剃り込みを入れて改造車で「倖田組」なんてステッカーを貼った車で街中を走れば、太秦映画村の侍と同じである。もはやコスプレ状態だ。そんな時代錯誤の物体が街中に現れたら、もしかしたら外国人観光客には喜ばれるかもしれない。
なぜヤンキーは地元から離れられないのか
今から15年ほど前、どの街にも見た目で分かる「ヤンキー」と括られて呼ばれていた輩は「チーマー」、「ギャル男」、「オラオラ系」と形を変えて存在していた。まるで蛍光灯に群がる蛾のごとくコンビニの駐車場にたむろしたり、同世代の人に因縁をつけたり。チームカラーを作って群たり、しかし現在ではそんな輩も絶滅しつつあると言われている。昔、「さまぁーずの〇〇かよ」っていう番組でチーマーとツッパリ的な暴走族が山手線ゲームをする企画があった。そこでチーマーの方が洋楽のアーティストをスラスラ答えられるのに対し、ツッパリ側は全く答えられないというのが個人的に印象深かった。だからなんだという話だけど、巷では「ヤンキー離れ」と言われている。学校から社会というコースを外れたら、その先は過酷な将来が待ち受けているという現実に「ヤンキーになる」という選択肢は非合理的なものだ。
しかしどうだろうか?なぜ「ヤンキー」が一般社会から非合理的と思われている「群れ」を成すかを考えたことがあるだろうか?「群れになる」という利点として、学校という社会からドロップアウトした若者たちが再び社会化するための「ライフライン」となっているポイントがある。あなたの地元にそんな人はいないだろうか?あれほど不良行為を働いていたのにいつまで立っても地元を離れない、もしくは地元の祭に参加するほどの郷土愛の持つ人とか。中途半端な街に生まれ育つと痛いほどわかるんだけど、頭いいやつほど地元を抜けて行く。だって、賢いやつはそんな中途半端な街に残るよりも東京の大学なり仕事なりなんだってありつける。だから地元を離れることができる。しかし学校をドロップアウトした「ヤンキー」たちはどうかというと賢くない。だから地元の高校を卒業してから地元を離れる術と地元を離れる理由が出来ない。だから「ヤンキー」は地元から出られないのである。
だから「ヤンキー」という群れは大人になっても横のつながりが強い。横のつながりが強いからこそ資本がなくても楽しく豊かに生活ができる。なぜかというと、肉食いたければ、ヤンキー友達と一緒にコストコでも行ってどか買いしてシェアすればいいわけだし、車もヤンキー友達とシェアして海でもUSJでもバーベキューでも行けばいい。仕事も紹介し合う。彼女や彼氏も紹介し合う。だからヤンキーにとって横のつながりが生命線となっていて、自分のファミリーを大切にする。もしこの横のつながりというライフラインが無くなれば彼らの手持ちの札はゼロになってしまう。だから地元から出られない。彼らにとって「群れを成す」ということが「ライフライン」なのである。
終わりに
かつては暴力的なイメージのあったヤンキーという単語は意味が変わり、地元愛の強い新保守層っていう意味にもなっている。
いつだって進化というものは生まれては絶滅しての繰り返しで形を変えている。ヤクザだってそうだ。吉本新喜劇みたいに見た目でわかりやすいヤクザなんて今時いるわけない。時代によってどんどん形態を変えている。
現在は孤独な人がマリオのスターを取った状態の人の方が危険だという話もある。そりゃ金もなけりゃ友人もいない、家もない趣味も仕事もないとなれば、何かデカイ犯罪でも犯して刑務所にでも入った方がマシなのであろう。だって刑務所だと医療も居場所も食べ物もある。そう考えるとせめて横のつながりは獲得できるヤンキーの「群れる」ということは現代社会において合理的なことなのかもしれない。