「青春ノスタルジア」に浸っている人たち
青春のバイブル
一体誰が考えたのか、そう言う流れを作ったのか知らないがまるで「キリスト教に聖書あり」と言わんかばかりにどの界隈にも「バイブル」と言うものがある。例えば、バンドの話になった時「ビートルズは後期の方が…」、「ローリングストーンズは…」、「やっぱりロックにはドラッグと酒…」(以下省略)って言ってくるおやじがいるけど。そのおやじの時代の過ごした70年代前半とかの時代ならビートルズやローリングストーンズが青春のバイブルだったかもしれなけど、もう平成も最後の年である今の時代になってみればただの昔のバンドである。
確かにロックと言うものを完全商業に持っていった実績もあるし、ここでは書ききれないほど功績のある偉大なバンドであることには間違いないけど、誤解を恐れず言えば「ビートルズかケンドリック・ラマーかどっちが現代の時代で考えればすごいか?」って聞かれると現代の実績を考えれば、間違いなくジャズやクラシック以外であるヒップホップでピューリッツァー賞を受賞したケンドリック・ラマーである。60年代とか70年代のロックサウンドよりも現代の時代で考えればヒップホップやトラップサウンドの方がすごいのである。
Kendrick Lamar – DNA.
「今」か「昔」かで考えれば圧倒的に「今」が勝利する。王貞治だって今の時代ならレギュラーになれないだろうと言ってる。しかしこう言うことをいうとそのおやじはまるで茶を沸かしたヤカンの如く「なにをいってるんだ」とまるで朝まで生テレビの四宮さんみたいに反論してくる。こうなればめんどくさい。こう言うおやじは10代前半に刺激を受けたものをいつまでも心に刻んでいる「青春ノスタルジア」を抱えているのである。
「青春」って一体なんだ?
「青春」と言って何を連想するかと考えれば涙、汗、努力などまるでジャンプ漫画のような単語がポンポン出てくる。では「青春とは?」って聞かれると何かよくわからない。よくわからないけどぼんやりと浮かぶのは青春と言うまだ社会の色に染まる前の無色透明で自分がまだこの世界の登場人物の何者かと言うことを暗中模索の状態のことが「青春」だと考える。
「青春」っていうやつは汗や努力などジャンプ漫画のような単語で構成されている。そんな多感で何かもがいてる青春ど真ん中の思春期の頃だからこそ、当時、好きだったものって中々、頭から離れなかったり手から離れなかったりしませんか?例えば、中学時代に流行ってたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとかBLANKEY JET CITYを今でも聞いてたり、いつまでもハンターハンターを読んでたり、まぁ自分の心内に留めておくならいいんだけど、この自分の青春時代のバイブルを「あの頃は良かった」や「今のバンドにはロックな奴はいない」とか「今のやつは本当の音楽を知らない」とか言って他人に押し付けるかのように説法をしてくることを「青春ノスタルジア」と言う。
もしかして自分もやっている?「俺たちの時代」
どうでしょう割とこの現象ってやってる側には全く自覚がないところがやっかいなところ。下手したら自分もそう言うことをやってしまっていることだってある。だって自分はただセピア色に染まった思い出を語ってるだけであって、善意か悪意で考えれば善意で言ってる。
しかし受取手である「他人」にとってはどうかと考えれば、やっぱり現代のサウンドが好きな人からすれば「今のやつは本当の音楽を知らない」なんておやじに言われたらやっぱりいい気分にはならない。て言うか古臭いお前に現代の何がわかるんだってなる。
それぞれ青春を体験した時代は違うのだからバイブルは時代によって変わる。ひょっとしたら自分の青春のバイブルを他人に押し付けて「やっぱりミクスチャーサイコー」とか「リンプビズキットを聞け!」とか言って「青春ノスタルジア」に浸っているかもしれない。
だってこうやって自分の青春時代のノスタルジーな風景に浸れば脳内に幸せホルモンがドバドバ状態になって幸せな気分になる。そして自分が守っている「青春」という愛着のある時代を時代の流れとともに消えていくのは彼らにとっては一大事である。
Limp Bizkit – My Generation
だからこのことを否定する要素が入れるとすごく好戦的な態度になりやすいのである。彼らは自分の「青春ノスタルジア」をさらけ出すことによってセピア色に染まった青春に酔っているのである。セピア色に染まった写真の方が余計なものが見えなくなって自分の都合よく解釈もできるしね。
だからそう言う人って「俺たちの時代」と言う言葉をよく言うのである。
思い出は心の中に
人は誰しも自分の経験談を語りがる。自分の経験談を聞いて同意もしくは尊敬されたい欲求って非常に快楽が大きい。この欲求ってセックス行為よりも快感があると言う研究の結果もあるぐらいである。
薬物に限らずアルコールもギャンブルもこのような自分の経験を語りたがることも、中毒と呼ばれるもの全ては脳にあるドーパミンの機構にその原因がある。決してそう言う青春ネタしかないと言うわけでもなく、ドーパミンが分泌されることで脳が強い快楽を得られるから、どうしても「俺たちの時代」と言う「青春ノスタルジア」を繰り返すのである。
こんな青春ジャンキー状態が誰しもが起こり得るのだから、「俺たちの時代」を連呼する人たちと意見を交わすと結局、双方が自分の青春時代を確認することに夢中になりすぎて収拾がつかなくなり、「お互い行っていることを理解しては負け」と言う状態になってしまう。
だから自分の青春に酔うのもいいけど、ほどほどにしないと他人からしたらおやじの青春語りほどうざいものはないし、そしてお互いの青春のマウンティング合戦になってしまうからある程度、自分の青春ノスタルジアは「心に留めるようにしときなよ」っていう話である。
それでは。