第22回もう一度まなぶ日本近代史~戊辰戦争、徳川の残光~

文:なかむら ひろし

 今回は、戊辰戦争の続きを書いていくわけですが、この辺りは、単純に旧幕府軍が次々と新政府軍に敗走していったという感じで、細かく取り上げられることはありません。重要なのは、結果というところでしょうか。

江戸進軍開始

 朝敵となった徳川慶喜は、主戦派を罷免し、自身は寛永寺に引きこもり、恭順の姿勢を示しました。しかし、旧幕府勢力の中での意見は、バラバラに分かれてしまいます。
 主戦派の中心人物であった小栗忠順は、「上様が恭順するって言ってるんだから、我々が戦いを続ける大義はない」と言って、慶喜に従いました。一方、慶喜と共に朝敵とされた松平容保は、会津に引き上げ、新政府に「天皇には従うが、お前らの政府は認めねぇ」という嘆願書を送ります。さらに江戸で薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内も、会津と同じように新政府から怨みを買っていたため、会津と庄内は、薩長同盟に対抗する形で会庄同盟を結び、徹底抗戦を誓いました。また、江戸に留まった者の中でも、恭順派と主戦派に分かれて、グチャグチャでした。
 そんな旧幕府に対して新政府は、有栖川宮熾仁親王(徳川家茂に和宮を取られた人)を総督とした東征軍をつくり、江戸へ進軍を始めます。

甲州勝沼の戦い

 鳥羽伏見の戦いで破れた新撰組は、江戸に引き上げると、甲陽鎮撫隊をつくり、甲府城を防衛拠点にしようと江戸を出発します。しかし、ここで近藤勇や土方歳三たちは、大きなミスをやらかしてしまいます。
 元々、武士でもなかった近藤や土方は、大名・旗本クラスにまで出世し、故郷に錦を飾ったというもあり、羽目を外しすぎてしまったのです。その結果、甲州への出発が遅れてしまいました。気持ちは、わかるのではないでしょうか。ところが、これが大誤算でした。甲陽鎮撫隊が甲府に到着したときには、もう新政府軍が甲府城を押さえてしまっていたのです。
 甲陽鎮撫隊は、不利な戦いを強いられ、大敗を喫してしまいます。この後、近藤勇は潜伏を続けましたが、とうとう偽名を使って投降することになります。尊皇の志士から怨みを買っていたため、近藤勇であることを隠していたのですが、投降先の新政府軍の中に元新撰組隊士がいたことで、ばれてしまいます。近藤は、切腹も許されず、斬首されてしまいました。

江戸城無血開城

 鳥羽伏見の戦いが勃発した当初は、中立を決め込んでいた諸藩も錦の御旗が翻ると、次々と薩長側についたこともあって、新政府軍の江戸進軍は、順調に進んでいました。そして、ついに江戸城総攻撃が決定されます。しかし、これに待ったをかけたのがイギリス公使ハリー・パークスでした。
 当時のイギリスは、日本の最大貿易相手国であったため、内乱による貿易への悪影響を懸念して、総攻撃の中止を主張します。東征軍の参謀を務めた西郷隆盛は、新政府内の総攻撃反対派やイギリスを敵に回すと今後の政治に支障をきたすことを考え、江戸城総攻撃を中止しています。
 旧幕府の山岡鉄舟は、新政府に必死の根回しを行い、全権の勝海舟(負け戦の講和になると呼び戻される人)と西郷隆盛の講和を実現させます。勝と西郷の講和は、旧幕府の「江戸城の明け渡し」や「武装解除」などを条件にまとまりました。

上野戦争

 江戸城無血開城で平和に解決かと思われましたが、江戸近辺では旧幕府勢力の無血開城反対派が新政府に楯突き、小競り合いが起こっていました。その中で有名なのが上野戦争です。
 徳川慶喜が寛永寺で謹慎しているときに、無血開城に反対する旧幕府の人々が慶喜の警護や復権を目的に彰義隊を結成しました。勝海舟ら恭順派は、彰義隊が新政府に対抗するための軍事組織とみなされることを懸念し、彰義隊は江戸の治安維持組織であるとして、どちらにもいい顔をします。無血開城後、慶喜は水戸に移るのですが、彰義隊は江戸に留まりました。勝は、新政府と衝突しかねない彰義隊を危険視し、解散させようとしますが、「裏切り者」呼ばわりされて、まったく聞き入れられません。彰義隊は、勝の懸念していたとおり、新政府軍の兵士をリンチにして殺してしまうという事件を繰り返しました。
 新政府は、彰義隊への対処が甘いということで、あくまで穏便に解決しようとする勝や西郷隆盛の代わりに大村益次郎を送り込みます。大村は、最後通牒として、彰義隊に解散と武装解除を求めますが、聞き入れられなかったため、彰義隊討伐を決定します。
 新政府軍は、大村益次郎の天才的頭脳と肥前の近代兵器アームストロング砲を用いて、彰義隊を攻撃します。彰義隊は、これにまったく歯が立たず、たった1日で鎮圧されてしまいました。彰義隊壊滅後、江戸における反乱は治まることになります。

会庄同盟

 会津に帰った松平容保は、先にも書きましたが、天皇への恭順は示したものの、武装解除や新政府への謝罪などは行いませんでした。新政府は、これを認めることができず、会津討伐を決定します。東北諸藩に会津討伐を迫ると、仙台はしぶしぶ会津へ挙兵します。仙台と会津は、戦闘状態へ突入しましたが、仙台は会津と積極的に戦う気はなく、降伏を勧めています。会津は、一旦降伏へ向けて前向きな態度を示したものの、翻意しています。
 その頃、庄内が天領(徳川の直轄地)を接収したことから、新政府軍は庄内への進攻も開始しています。しかし、こちらも積極的に戦う気がなかったため、庄内により撃退されています。会津と同じく朝敵となった庄内は、会津と同盟を結びます。お金がない会津に対して、庄内は資金的な余裕があったため、最新式兵器による武装強化を行っていたこともあり、会津は折れかけていたところから再び奮起することとなったのです。

奥羽列藩同盟

 東北諸藩は、会津に対して同情的でした。これまで京都守護職として、御所を守ってきた会津をいきなり朝敵として征討してしまうなど、あまりに無情だと感じていたのです。そこで東北諸藩は、新政府に対して、会津や庄内を「許してやったらどうや」と訴えます。そして、これが却下されると、東北諸藩は会庄への出兵を解いてしまいます。
 新政府軍は、東北諸藩が非協力的であるため、援軍を求める密書を送るのですが、これが仙台藩士の手に渡ってしまいます。その密書の中に「奥羽皆敵」という、自分たちも敵として認定されているような言葉が記されていたことから、仙台は怒りを露にします。新政府軍にそんなつもりがあったわけではなかったのですが、多勢に無勢なので一刻も早く援軍をよこして欲しいという気持ちからこのような記述になったのです。
 このような経緯から東北諸藩は、結束して朝廷へ直接、会庄の赦免の建白を行おうという流れになり、奥羽列藩同盟が成立しました。この同盟は、会庄同盟のような軍事同盟ではなく、あくまで会庄の赦免を訴えるための同盟でした。

奥羽越列藩同盟へ発展

 ところ変わって、北越の長岡は、新政府から会津征討への参戦を促されている一方、会津からも救援を求められていました。藩内でも、恭順派と抗戦派の真っ二つに分かれていました。しかし、家老の河井継之助は、そのどちらでもない方向へ藩論を動かしていきます。
 河井は、最新式兵器を購入し、当時の日本に3つしかなかったガトリング砲のうち1つを手にするなど、軍備を拡張させていました。その軍事力を背景に「独立特行」という「武装中立」を掲げることになります。そして、新政府と会津の仲裁に入ります。しかし、新政府側は、河井をことなかれ主義の腰抜け野郎だと判断し、これを拒絶します。
 結局、長岡は奥羽列藩同盟に加わることを決め、これに新発田など北越諸藩も続き、奥羽越列藩同盟が成立します。そして、当初は軍事同盟ではなかった奥羽列藩同盟でしたが、いつのまにか軍事同盟へとすりかわっていくのです。

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長岡家老の河井継之助は、優秀な人材でしたが、中立の難しさを見誤りました。
中立とは、言わばすべてを敵に回す行為であり、そのすべてが束になってかかってきても勝てるような力が必要です。
戦争の仲裁にしても、それぞれと同等の力が必要です。
ガトリング砲などの最新式兵器を持ち、自信があったのかもしれませんが、本塁打王1人を擁しても優勝できないのです。

 次回で幕末編は、最終回となります。お金もないのに精神力だけで頑張ってきた会津に多くの悲劇が生まれます。

なかむら ひろしのTwitter

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