第23回もう一度まなぶ日本近代史~最終決戦!箱館戦争~
これまで御所を守ってきたのにも関わらず、薩長の工作によって、いきなり朝敵にされてしまった会津は、新政府を認めることができませんでした。その会津は、庄内と同盟を結び、徹底抗戦を誓います。また、会津に同情的な東北、北越諸藩は、奥羽越列藩同盟を結び、会津の赦免を訴えます。しかし、新政府は、近代国家を目指すためには、旧幕府勢力を生かしておくわけにはいかず、掃討戦に打って出ることになるのです。
強いぞ庄内
新政府軍は、会庄を討つべく進軍を開始します。徹底抗戦を誓う会庄同盟に対して、奥羽越列藩同盟は、会庄の赦免を訴えるために結成されたものであるため、一枚岩ではありませんでした。いざ戦闘になると、列藩同盟側は、新政府に寝返る藩も多く、会庄にとっては厳しい状況でした。
しかし、庄内は、新政府との決戦に備え、近代兵器で武装し、優秀な指揮官を擁していたため、善戦を見せるのです。開戦当初は、連戦連勝で新政府軍を次々と撃破していきます。最終的には、新政府軍の増援と列藩同盟から新政府への寝返りが出るなどで形勢は逆転し、押し戻されていきますが、庄内は粘り続けるのです。
こっちも寝返り
武装中立に失敗した長岡は、北越諸藩と共に列藩同盟に加盟すると、新政府軍と戦闘を開始します。河井継之助率いる長岡は、ガトリング砲などの重火器で善戦するも、新政府軍の物量作戦には敵いませんでした。河井の活躍で一時、盛り返したのですが、河井が負傷によって死亡すると、長岡は新政府軍に制圧されてしまいました。
北越の最終防衛ラインとなっていた新潟を守っていた米沢は、長岡が敗走した後も粘りますが、新発田の裏切りに遭います。新発田が新政府軍の進軍を手引きし、米沢は敗走し、新潟を奪われてしまうのです。
孤立無援の会津
新政府軍にとって、一番の目標は会津です。会津へ向けて進軍した新政府軍は、仙台を中心とする列藩同盟軍を次々と撃破し、降伏させていきます。会津攻めを開始した時には、会津は孤立無援の状態でした。しかも、会津の主力は、江戸を攻めるため、会津から離れた場所におり、新政府軍の進撃を阻止することもできず、会津は厳しい戦いを強いられることになってしまいました。
会津は、籠城して新政府軍を迎え撃ちますが、16~17歳の少年隊士で結成された予備兵力である白虎隊を投入するなど、もはやヤケクソという状態でした。敗色が濃厚となると、白虎隊や女性や子供までも集団自決するという悲惨な状況となりました。戊辰戦争で亡くなった人の1/3が会津の人々だったと言われています。
北へ・・・
列藩同盟軍の主力であった米沢、仙台に続き、会津も降伏します。会津が降伏すると、驚異的な粘りを見せていた庄内もついに降伏し、列藩同盟は瓦解します。しかし、戊辰戦争は、まだ終わったわけではありませんでした。
江戸に残留していた榎本武揚を中心とする旧幕府軍は、軍艦で江戸を出航します。途中、仙台に立ち寄って、旧幕府軍や列藩同盟の残党を収容し、北海道へ向かいました。北海道に上陸した榎本たちは、松前を攻撃し、五稜郭を占領します。そこで、蝦夷共和国という独立政権を打ち立てるのです。
敵の主力艦を奪え
榎本としては、新政府をどうしても受け入れることができない人々のための受け皿として、独立政権である蝦夷共和国を打ち立てたわけですが、新政府は、これを受け入れることはできませんでした。北海道も日本であり、挙国一致で近代国家を目指さなければならないのです。
榎本たちは、新政府軍との戦いを前に主力艦開陽丸を悪天候により、沈没させていたこともあり、新政府軍の主力艦甲鉄を奪うという作戦を立てます。当初は、なけなしの3艦でこの作戦を実行する予定でしたが、悪天候により、2艦が故障してしまうという、なんとも幸先の悪いスタートとなっています。それでも作戦は途中までは大成功させたのです。途中までは・・・
先に軍艦を奪うと書きましたが、どのように奪うのかという話になります。言うは簡単な話で、こちらの軍艦を相手の軍艦に近づけ、兵士を相手の軍艦に飛び乗らせ、艦内の敵を斬り殺して奪うのです。共和国軍は、軍艦を新政府軍の甲鉄に近づけることまでは成功したのですが、共和国軍の軍艦は外輪船(船の両脇に付いた車が動力になっている)のため、横付けができなかったのです。そこで船首を甲鉄の左舷に突っ込む形となりました。しかし、黒船の形を想像してみてください。船首の部分が高くなっているため、甲鉄に飛び移るにも高さが3メートル近くにもなっていました。狭い船首から3メートルもの高さを飛び移るわけですから、スムーズに行うことができるわけがありません。結局、作戦は失敗に終わってしまいます。
戊辰戦争の終結
甲鉄の奪取に失敗した榎本たちは、新政府軍に北海道上陸を許すと、五稜郭に籠城し抗戦するも、ついに降伏し、戊辰戦争は終結しました。こうして、新政府による国内統一は、達成されたのです。
戦後、新政府に楯突いた庄内は、西郷隆盛の尽力で、寛大な処分で済まされたことから、後の西南戦争では、西郷についた庄内藩士がいるなど、西郷に感謝する者が多数だったようです。一方、会津は辺境の地へ転封され、餓死者が続出するという悲惨なことになり、現在でも薩長に対する恨みが消えていないという話が残っています。
会津では数々の悲劇が生まれましたが、明治維新という大変革が起こったのにも関わらず、その流血の少なさは、世界でも異例中の異例です。同時期に起こったアメリカの南北戦争では4年で62万人、フランスのパリ・コミューン事件では10日で3万人の死者が出ています。一方、戊辰戦争での死者は、1年半で8200人でした。
蝦夷共和国の中心であった榎本武揚や大鳥圭介は、後に赦免され、新政府に登用されていますが、土方歳三は、戦死を選びました。
新政府としては、土方に相当な恨みがありますし、土方としても、近藤勇に切腹も許さず、斬首に処した新政府に恨みがあります。
お互いに交わることは、最初からなかったわけです。
京都にいた頃は、「鬼の副長」と呼ばれていましたが、蝦夷にやってきた時には、死期を悟ったのか、非常に優しい人物へと豹変していたそうです。
思ったより長くなってしまいましたが、今回で幕末編は終了です。次回は、年表によるこれまでのまとめを行い、次々回から明治へ入っていきたいと思います。明治からが本番です。「明治以降はあまり興味がない」などと仰らず、一緒に近代史を学んでいきましょう。