シネマフィリアvol.19 自分のものさしでは万人の幸せは計れない 『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』
自分のものさしと他人のものさし
さも自分の幸せが万人に通用するかのように言う人っているじゃないですか。あれって結構、話の受け取り手は苦労する。だってたとえばその人が子育てや家族に幸せを感じている一方、話の受け取り手が独身でダッチワイフとともに生活をしていて深夜にアニメを見ることが好きな人の場合、お互いの幸せベクトルの進み方は違う。「子育てや家族のために生きるって楽しい」って言ったところで、独身の人からしたら「はっ?ただのATだろ?」ってなるわけである。だけどその家族のために生きることに幸せを見出しているのだからこれに文句を言うのは筋違いなのである。逆も勝りで「ダッチワイフを暮らす人ってきっしょー」って言ってもその人がその生活に幸せを見出しているので第三者が批判する権利なんてどこにもないのである。
そもそも生まれ育った環境や周りの影響下によって「幸せ」というものは人それぞれ異なる。先進国の人間が発展途上国の人間を「テレビもねぇ、ラジオもねぇ、飯もねぇ。なんにもなくて貧乏そうで可哀想」って見方をしても、「じゃあその発展途上国の人間を無理やり先進国に連れてきたら幸せか?」と聞かれたら恐らく違うと思う。逆に「ものが溢れかえってる先進国でハロウィンの日に軽トラを横転させる人たちが幸せか?」って聞かれたらこれはわからない。だから自分のものさしで他人の幸せを測るなんてできるはずもないし、いらない争いに発展するに至ることにもなる。
前置きが長くなったけど、結論からいえばこの作品はいい映画である。ハッピーエンドだし。何よりも映像が綺麗だ。だけどなにかが違う。『奇跡体験!アンビリバボー』の再現VTRの時とほとんど内容が同じとかそんなんじゃない。どうも見終わった後、心のどこかになにかがひっかかるのだ。
あらすじ
まず、この映画がどういう話かっていうと前半はインドでサルーという少年が迷子になって、そのインドでの道中、様々な大人達によって誘拐されかけたり、売り飛ばされそうになるなど死にかけたけどなんとか生き抜いてオーストラリアの裕福な夫婦のもとへ養子として向かい入れられる話で、後半は大学生になった主人公がオーストラリアから少ない幼少期の記憶を頼りにインドの実家を探して見つけるっていう「まぁ、生きていたらいろいろあるけど人生ってやっぱり「運」だよ。ガチャだよね」っていう話だ。
前半のインドでの話だって、悪い大人に売られる寸前で逃げ出すことに成功したり、上手く環境のいい裕福なところの家に養子として迎え入れてもらえたりして、すべて「運」というガチャが成功したから最後はハッピーエンドを迎えられた。だけど「生きるか死ぬか」って言っていう「運命ガチャ」は別にインドが貧困だからという話ではない。だってこの先進国である日本でも誘拐されて殺されたり、明日食うもんなくて餓死したり、夏に無理やり運動させられて熱中症で死ぬこどもがザラにいるんだから。我々が今、生きているのも「運命ガチャ」がうまく行っているだけである。
マントッシュというこども
この映画のサルーっていう主人公はこどもの頃から悪い大人に狙われるぐらいに容姿はいい。だけど後半、サルーの養子先の家族にマントッシュというこどもが迎え入れられる。彼の容姿はサルーとは違ってゴブリン、もしくは腐ったアボカドのような少年で容姿はあまりいいとは言えない。この養子同士の容姿ってなんだか韻踏んだみたいだけどこれがお互い対称的でなんだかマントッシュが可哀想なんだよね。そしてマントッシュは自分の気持ちが抑えきれなくなるとまるで藤原竜也のように「ンァアアア」って物や自分に当たり散らすこどもである。養父母の表情は「ブサイクで暴れる養子ってもう完全にガチャ失敗だ」みたいな表情をする。
それで当たり散らすこどもに家族は四苦八苦することになるんだけど、しかし考えてみれば当たり散らすこどもなんて結構いる。このマントッシュが何も特別なことではない。ほらストファイでベガのサイコクラッシャーとかガイルの待ちガイルで嵌めるとコントローラーをぶち壊すほどに当たり散らす奴とか覚えないですか?
それからこのマントッシュは大人から酷い目にあったこどもだと思うので、彼の心の傷を考えれば貧困地域からの養子ってこれが当たり前なのだろうと思う。だから彼は外れガチャではないのである。
博愛主義という違和感
この映画の後半でニコール・キッドマンが演じるスー・ブライアリーが「自分が養子を迎え入れるのは自分がこどもを産めないんじゃなくて、貧しい国のこどもを一人でも多く救いたいっていうのが動機」という。その慈悲の気持ちはご立派ですごく素晴らしいんだけどね。だけどこの慈悲の気持ちというか博愛主義の感覚がどうも引っかかる。だってそんなに「不幸で可哀想」っていうこどもなら別にインドじゃなくてもオーストラリアにもたくさんいるはずだし、じゃあ、スーさんよ、「あんたは養子に迎え入れたマントッシュは救えたのか?」って思うのですよ。
「暖かい部屋に食べるものはある、そしてちゃんと学校へいける」これって確かに先進国の普通の人間ならごく普通のことで、「これがないと不幸で可哀想だよな」って思うけどそれは本当にそうなのだろうか?大人になった養子の二人はサルーは大学に行ってリア充生活を満喫しているけど、一方のマントッシュはバイト代を全て薬に当ててしまうほど堕落してしまう。それにサルーは一方的に彼を嫌っていて家に居場所がない。
こんなんで救えたのか?これじゃあただの博愛主義の自己満夫婦である。恐らく、スーの「こうすれば不幸なこどもは幸せになるでしょ?」っていう博愛主義はマントッシュにとっては押し売りにしかすぎなかったと思う。
終わりに
主人公サルーの周りはみんないい人で固まっている。この映画が実話を元にしているというから本当にガチャの引きが強い。前半でのインドでも引きが良かったし、後半の家族ガチャ、友人ガチャ、恋人ガチャなど本当に引きが強い。まぁ彼はそんな自分のリア充な生活に吐き気がするなんて言って恋人と別れて、大学を辞めてしまうんだけどね。
「そんなリア充な生活に吐き気がするなんて贅沢だ」っていう人もいるかもだけど、それは彼の幸せを測るものさしが君たちと違うだけだ。そういう人はそっとしといてあげよう。交友関係を断捨離しようとする人なんてそこら中にいる。そんでサルーはちゃんと実家を見つけることができたしめでたしめでたし。
だけどマントッシュにとってこのガチャはいい引きだったのだろうか?確かに幼少期を生き延びれたことはガチャ成功と言っていいだろう。だけど大人になってからの彼はガチャに成功しているのだろうか?まぁ死ななかったし、働いているし自分の運命ガチャ成功といえば成功なのかもしれない。
最後になるけど、この映画自体はいい映画だよ。特に前半のサルー少年編は子役の神がかり的演技ですごくハラハラする。だけど問題は後半のサルー青年編。これがもうかったるくてかったるくて、まぁこれ以上内容を話すのはやめにしよう。あとは自分の目で確かめるのが一番。後半のサルーの自分探しは正直めんどくさいパートだけど終盤の最後の最後で「おぉっ!!」ってなります。
余談になるけど
ねこぢるという漫画家のインド旅行記の漫画がある。その漫画にインドのカーストにいる人たちは酷い目にあってもなんでみんなヒンドゥーの神を信じるのか?っていう話がある。
ゴミ拾いの子はゴミ拾いになる他はない。ドロボーはドロボーになるしかない。神によって決められた道だ。だからこどもであってもよく働く。そんなカースト社会のインドではカーストのない仏教やキリスト教に改宗させる運動もあったけど、あまりうまくいかないらしい。未来永劫、彼らに今後いい事が何一つなかったとしても、熱烈なヒンドゥーであり続ける。
だからみんなカーストで生きていくしかない。いいことはなくてもヒンドゥーの神々がいる。彼らの生活を先進国の人間が可哀想と言っても幸せをはかるものさしが違う。なので他人の幸せにとやかく言う筋合いはないのである。