第2回もう一度まなぶ日本近代史特別編~浪士組、上洛~

文:なかむら ひろし

 前回は、近藤勇の出自について書いていきました。農民の子として生まれた宮川勝五郎は、農民でありながらも試衛館に入門し、剣術の腕を磨いていきます。師範の近藤周助に気に入られると、養子入りし、宗家を継ぐことも決定します。さらに前回は触れませんでしたが、武家の娘である「つね」と結婚し、娘も生まれます。その後、晴れて4代目を襲名すると、順風満帆な生活を送っていたわけです。しかし、山南敬助からある提案を受け、激動の時代へと突き進んでいくことになるのです。

そうだ 京都、いこう

 近藤勇が4代目を襲名した頃、将軍徳川家茂が上洛し、攘夷実行を誓うことが決定していました。(詳しくは、本編第11回を参照してください)しかし、当時の京都は、佐幕派要人たちが急進的な尊攘派によって暗殺される、「天誅」と称した殺人事件が頻発していました。
 そこで、庄内出身の志士清河八郎が山岡鉄太郎を通して、「浪士組」結成を求めます。将軍上洛に先駆けて、将軍警護を目的とした治安維持組織を結成し、京都へ送り込もうというものです。清河の案は採用され、浪士組の募集が始まるのでした。その募集条件がまさに破格で、「やる気があれば、年齢や身分は問いません。前科者でも大丈夫です。キャリアアップ制もあり、活躍すれば、すぐに昇進できます。」というと、今ではなんだか胡散臭い感じもしますが、当時としては画期的なものだったのです。
 そんな情報を耳にした山南敬助は、田舎でくすぶっていた近藤勇にこの話を持ちかけます。近藤は、この話に乗ることを決意し、山南をはじめ、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助らとともに浪士組に参加することになったのです。

やばい奴らが集まった

 浪士組志願者たちは、小石川伝通院(東京都文京区にあるお寺で、現在も残っています。)に集められました。志願者数は、なんと200名以上という大盛況です。しかし、集まった人たちが、少々例えが古いのですが、『ビーバップハイスクール』の不良みたいな連中ばかりで、こいつらの方が治安を悪化させるんじゃないかというメンバーです。本来は、メインストリートである東海道を通って京都へ行けばいいのですが、途中で問題を起こすことは必至ということもあり、中山道を通って京都へ向かうことになります。(そもそも尊攘派を刺激しないよう、目立たないように上洛させる必要があったのです。)ちなみに、この浪士組の責任者に任命されていた松平主税助は、すぐに辞任しています。理由は不明ですが、辞めたくなる気持ちはとてもよくわかります。
 浪士組の一員となった近藤は、道中先番宿割という役割を与えられます。現在のように新幹線などはありませんから、歩いて江戸から京都へ行かなければなりません。途中で宿泊しながら進んでいくのです。そこで、近藤は、先回りして浪士組の宿を取る役割を担ったのです。しかし、本庄(現在の埼玉県本庄市)で大失態を仕出かしてしまいます。浪士組の中でも一目置かれる存在であった芹沢鴨の部屋を取り忘れてしまったのです。近藤は「すぐに部屋を用意しますから」と言って平謝りを続けますが、芹沢は「てめぇに畳の上で寝る資格はねぇって言うんだったら、野宿してやらぁ」と出ていってしまうのです。すると、芹沢は宿場の真ん中でキャンプファイヤーを始めてしまいます。当時の家屋は木造建築の長屋が多かったので、燃え移りでもしたら大惨事です。なんとか、その場は収まりますが、近藤と芹沢の因縁はここから始まったと言われています。このことは、本庄宿大篝火事件と呼ばれます。

手ぶらで江戸には戻れません

 その後、浪士組は京都に到着するのですが、直前に京都ではこんな事件が起こっています。所謂「足利三代木像梟首事件」というものです。室町幕府の初代将軍足利尊氏、2代将軍足利義詮、3代将軍義満の木像の首が切り取られ、鴨川に晒されるという事件です。(詳しくは書きませんが、足利尊氏といえば、朝敵として代表的な人物です。)尊攘派は、浪士組結成に苛立っており、嫌がらせとして行ったのですが、京都守護職に任命された松平容保は、「これは討幕を意味する挑発行為だ!けしからん!」と怒り心頭でした。尊攘派の取り締まりを強化していく、ひとつの原因になったのではと言われています。
 京都壬生村に到着した浪士組でしたが、発案者の清河八郎が到着するやいなや「君たちが集められた本当の目的は、将軍警護などではなく、尊皇攘夷の先鋒として働くことだ」と言い出します。清河は、幕府の権力とお金を使って作り上げた組織をそのまま、反幕府組織にすり替えようとしたわけです。清河は、直前に起こった「生麦事件」が原因で、江戸でイギリスと戦争になるかもしれないということを名目に、浪士たちを連れて江戸に引き返していきました。しかし、清河の策に猛反対した人たちがいました。それが近藤勇を中心とした試衛館派と先ほど出てきた芹沢鴨を中心とした水戸派です。彼らは、京都残留を主張し、結局京都に残ることになりました。浪士組の責任者である鵜殿鳩翁は、浪士組に参加していた殿内義雄、家里次郎に京都残留組の取りまとめを指示し、浪士組の分裂を招いた責任を取る形で辞職しています。
 宙ぶらりんとなってしまった京都残留組は、会津藩主、京都守護職の松平容保を頼り、会津預かりとなり、「壬生浪士組」と名乗るようになります。一応、会津が面倒を見るが、まだ「試用期間」という感じです。会津としても尊攘派の取り締まりを強化していきたいし、汚れ仕事をやらせるにはちょうど良かったのでしょう。

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鉄扇がトレードマーク、新撰組のトラブルメーカー芹沢フェニックスじゃなくて芹沢鴨。
元水戸藩士で天狗党にも加盟していましたが、問題を起こして投獄されていました。
後に藩内の政変で赦免され、浪士組に参加することになります。
近藤たちと共に京都に残留しますが・・・
本庄宿ではキャンプファイヤーでしたが、今度は家屋ごとを燃やしちゃいます。

 次回は、新撰組のお家芸である内部粛清が始まります。

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