シネマフィリアvol.20 打ち解けるには時間がいる『パレードへようこそ』
弱い立場と強い立場
社会的マイノリティーを題材にした映画を酷評するのは難しい。例えば格闘技で中邑真輔みたいな屈強な若者としおっしおのおヒョイさんみたいな爺さんとガチの総合格闘技で勝負しろって言われたらその屈強な若者はどんな行動を取るだろう?恐らくよっぽどのサイコパスでない限りその試合は放棄すると思う。だってマジやったら爺さんは死んでしまうし。それで犯罪者になってしまうのは分が悪い。
じゃあそのおヒョイさんみたいな爺さんにメリケンサックと釘バットを持たせたらどうだろう?多分、それでも同じことになると思う。こんな感じで「弱い立場」の人間を攻撃することはよっぽどのサイコやろうでない限りできないのだから、弱い立場の人間を攻撃するのは難しい。
だけど戦ってしまった場合はどうなるか?例えば件のおヒョイさんみたいな爺さんをガチで殴りつけると、どんなルールに則った試合であっても「観客」がそれを許さない。「なんてひどいことをするやつなんだ」「相手は老人だぞ!」って感じで罵倒の嵐だ。この周りの「観客」というのは個人であればなんともないけど、集団になるととてつもない脅威になってしまう。しかも多ければ多いほどどんどん強くなる。結果、その屈強な若者は「観客」のブーイングに耐えかねて格闘選手としてもダメになってしまう。「観客」常に弱い立場を応援する。それも弱そうであればあるほど観客は応援したがる。だからマイノリティーを題材にした映画ってどうしても好評価になりやすいと個人的には思っている。
だって権力側を全力で肯定的に描いた作品で名作ってあまり聞いたことないでしょ?強い立場ってどうしても反発にあってしまう。みんな政治家とか官僚って嫌いでしょ?つまりそういうことである。
主義主張に疲れる
『パレードへようこそ』って本当にいい映画なんですよ。正直言って非の打ち所がない。カメラワークもいいし、絵作りもうまい、いい映画なんだけど、個人的にはなんか周波数が合わないというかなんとういうか、映画の登場人物のほとんどがゲイ、レズビアン、労働者、エイズなど80年代イギリス社会のマイノリティーな人たちが「未成年の主張」の如くメッセージを叫びまくっているからなんかすごく疲れる映画なんですよね。ほら、メッチャいい人だけどなんか疲れる人っているじゃないですか?あれとすごく感覚的に似ている。
一応、勘違いしないで欲しい、「疲れる」というのはそう言ったレズビアンとかゲイ、炭鉱労働者など社会的にマイノリティーな人たちとかリベラルな思想に対することではない。「沖縄」って単語だけでボッコボコに叩くインターネットの風潮や「生産性がない」っていう政治家の発言には「酷いなあ」って思うほどだ。それに学生時代に教室の壁に幸徳秋水の画像を貼り付たり、教室の端っこで小林多喜二の作品を読んでいるほどリベラル的思想には寛容的だと思う。
ではなぜこの映画が僕に合わなかったのか、その正体を暫く考えて見たけどどうやら「この映画が好きじゃない」という単純な話ではないみたいだ。
あらすじ
1984年、イギリスは大英帝国なんて過去の栄光で国は不況に喘いでいた、「鉄の女」としても有名なマーガレット・サッチャー首相が発表した20カ所の炭鉱閉鎖案は炭鉱労働者たちから強い反発があり、これに抗議するストライキは4ヶ月目に入ろうとしていた。政権側もそれに対して警察の暴力を含めた京子な態度で臨んでいた。レズビアンとゲイの人権を訴えるパレード行進終了後、パレード直前にストライキのニュースを見たマークは、炭鉱労働者とその家族を支援するために、ゲイやレズビアン仲間たちと募金活動をしようと思いつき、支援組織「炭鉱主支援同性愛の会」別名・LGSMの旗揚げを提案する。しかしマッチョで男社会な炭鉱夫たちはゲイたちに拒否反応を示し、支援を拒まれる。ところが団体名のLをロンドンと勘違いしたウェールズの田舎町の炭鉱が支援を受け入れることになり、彼らは直接寄付を届けることにしたのだが・・・。そしてここから物語が始まっていく。
なぜ合わなかったのか考えてみよう
この映画に対する合わないところって「私たちゲイとレズビアンでマイノリティーだけどみんなもっと注目して!」という押し付けと「ゲイやレズビアンに距離を少しでも開けたらハイ、差別」みたいな仲間が睨みを聞かせる圧力。それがどうしても気になった。
ゲイやレズビアンはアンダーグランドで粛々と生きろ。と言うことではない。別に人が誰を好きになろうがそれが性別が同じだろうが異性だろうがそれは個人の自由だし、「好き」なんてもんはみんな違う。個人的にはそう言ういろんな人たちの存在の方がいる方が世界は面白くなると思う。事実、今あるクラブ、パンクなどのヤングカルチャーの下地にはゲイ、レズビアンカルチャーにあるわけだし。性的マイノリティーたちの人権は認めるべきだと思う。
だけどウェールズの炭鉱夫とLGSMの合同飲み会見たいなシーンで炭鉱夫同士喋っていると炭鉱夫の夫人が「もっとLGSMの人たちと喋りなさい」「あなたは偏見持ちね」って言われるシーンがあるんだけど、このシーンが僕の中でずっと引っかかっている。だって誰と仲良くするかどうするかってその人の自由じゃないですか?どんなに「認めてくれ!」って叫んでもやっぱり、嫌いな人も多数いるわけなんですよ。それはゲイやレズビアンに限った話じゃなくて、人間であれば絶対嫌いな人っているはずである。まぁ、このLGSMの人たちと炭鉱夫は最終的にはみんな打ち解けるんだけどね。
打ち解けるには時間が必要である。例えば、染色体は一緒でも見た目が肉塊のようなエグい見た目の宇宙人が「みんなで仲良くしましょう」って言われてもやっぱり無理でしょ?だってどんなにいい宇宙人であっても気持ち悪いものは気持ち悪いものなんだし。扱い方がわからない。それに慣れるための時間は必要である。この映画のLGSMも昨今のLGBTの話も同じである。いきなり「認めろ!」とか「偏見を持つな!」って言われてもそれは無理な話である。だってそういう主張をする人が身近にいない人からしたら宇宙人と同じわけなんだし。
それからもう一つは主張が多すぎるというポイント。
「事実を描く」と言うことで必要なんだけどサッチャー政権、同性愛者への偏見、家族へのカミングアウト、エイズ、炭鉱ストライキを2時間でまとめるのは無理がある。とにかくソーセージのように詰め込むだけ詰めた結果、もっと掘り下げればもっといい見せ場が作れそうな場面を端折っている印象を持った。個人的にはあのウェールズの婆さんたちがロンドンを紀行する場面よりもLGSMのチャリティーライブのシーンをもう少し丁寧に見たかった。
それと主人公って一体誰だったんだろうか?カミングアウトをする金髪の人なのか、それともパンクスファッションのマークと言う人物だったのか?ずっとマークの思いつきで物語が進んでいくからどの人物にもキャラクターの焦点が当たりきっていないのも気になるところだ。
終わりに
映画としては名作なんですよ。最後のみんな団結してロンドンをパレードするシーンなんかは映画史に残るシーンだと思う。だけど逆にこれを権力側から描いたらどうなるだろうか?イギリスは未曾有の不況に落ちてしまって、とにかく国を維持させるのに奔走するサッチャー政権、そんな最中、炭鉱夫たちはストライキ、ゲイやレズビアンはロンドンでパレード。このままではイギリスが分裂しそうなので取り締まりを強化する。そんな最中にゲイとレズビアンが「我々にも権利を!」って叫ばれても、「こっちはそれどころじゃねぇよ!」って話である。どうだろうか?それでもやっぱり弱い立場の方が応援したくなりますよね?なんだかこの映画を見てなんとなく「いい映画」といわれる作品の本質が垣間見れたような気がします。
そんなところでまた次回。