第3回もう一度まなぶ日本近代史特別編~壬生浪士組、始動~

文:なかむら ひろし

 京都に到着した浪士組の大半は、清河八郎と共に江戸へとんぼ返りすることになりました。しかし、清河に異論を唱え、京都に残留することになったのが近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら13名(200名以上いたのに)でした。浪士組の責任者である鵜殿鳩翁は、残留を求める近藤らを会津藩主で京都守護職の松平容保に紹介し、会津預かりとすることに成功しました。また、残留組の取りまとめ役に殿内義雄と家里次郎を任命し、新たな同志を募集するよう指示します。ここで、浪士組から根岸友山ら7名と新たに斎藤一、佐伯又三郎が加わり、総勢24名となりました。

主導権争い

 文久3年(1863年)、彼らは壬生浪士組と名乗り、活動を開始することになります。なぜ壬生浪士組かというと、彼らの拠点が京都壬生にあったからです。ちなみに拠点といっても、商人の家を間借りしていただけです。ぽっと出の浪士風情に専用の宿舎なんて用意してもらえるはずもありません。
 いよいよ壬生浪士組始動というところでしたが、近藤や芹沢たちには納得がいかない部分がありました。最初に京都残留を主張したのは自分たちなのに、そうじゃない殿内、家里に取りまとめ役として、でかい顔をされたくないということです。隊内は、近藤勇を中心とする試衛館派、芹沢鴨を中心とする水戸派、さらに根岸友山を中心とした根岸派という派閥が形勢され、ことあるごとに対立するのです。
 こんな状態ではいけないと、殿内は新たな同志を求めて旅立とうとします。しかし、四条大橋で何者かによって斬殺されてしまうのです。殿内は、主導権争いや性格の悪さが原因で、近藤らによって殺害されたとされていますが、はっきりわかりません。ただ、根岸派は「隊内による犯行であるのは明らかだ」と察し、「どんなブラック企業だよ」とは言ってませんが、早々に脱走しています。さらに、これらのことで孤立してしまった家里は、大坂に逃げるのですが、近藤や芹沢に見つかり、切腹させられてしまいます。
 殿内、家里や根岸派がいなくなり、これで仕切り直しというところでしたが、水戸出身の粕谷新五郎も嫌気がさして脱走、阿比留鋭三郎は病死してしまいます。結成から1ヶ月も経たないうちに、わずか15名となってしまったのです。

組織編制

 この後、壬生浪士組は新たな隊士を募集します。この時に、松原忠司、尾形俊太郎、島田魁といった後の幹部メンバーが入隊しています。
隊士が増えたことで、壬生浪士組も組織編制を行っています。

 ここで、文久3年(1863年)6月の組織編制を見てみましょう。

局長 近藤勇、芹沢鴨
副長 土方歳三、山南敬助、新見錦
副長助勤 沖田総司、永倉新八、斎藤一、原田左之助、藤堂平助、平山五郎、野口健司、平間重助、井上源三郎、佐伯又三郎、尾形俊太郎、松原忠司、安藤早太郎
監察方 島田魁、川島勝司、林信太郎
勘定方 河合耆三郎

 トップの局長を副長が補佐するという形で、副長はブレーンという位置づけでしょうか。副長助勤は、副長を補佐する実務担当といったところで、小隊長の役割を担います。また、監察方は内務監察、勘定方は会計を行います。
 この後、新撰組となり、組織が肥大化していくと、役職も細分化され、江戸時代では一般的だった1人でいくつもの職務をこなすという形を取らず、各人がそれぞれ専門の職務をこなすという、意外と近代的な組織編制を行っていきます。

鉄の掟、局中法度とは?

 得体の知れない浪人が集まった壬生浪士組は、烏合の衆と言わざるを得ません。隊士が増えていくことで、その統率をきちんと取る必要性が高まってきます。そこで考案された隊内規律こそが、所謂「局中法度」というものです。それでは、その内容を見てみましょう。()内は、筆者の勝手な要約です。

一.士道に背くまじきこと(武士道に反する行いはダメ、絶対)
一.局を脱するを許さず(脱走は許しませんよぉ)
一.勝手に金策を致すべからず(勝手に借金したらアカン)
一.勝手に訴訟取扱うべからず(勝手に他人の訴訟に口出ししたらイカン)
一.私の闘争を許さず(仕事と関係ないところでケンカすな)
右条々相背き候者は切腹申し付くべく候也(以上を破ったらHARAKIRI)

 この中で最も危険な条文は、ひとつ目の「士道に~」です。士道という定義の曖昧なものに背くと切腹というのは、近藤や土方のさじ加減でなんとでもなるということです。法律を学ぶ上で、道徳を条文に書いてはいけないという例え話としてよく使われます。この局中法度があってか、内部粛清による死者数は、戦闘による死者数を凌駕すると言われています。
 ただ、二つ目の「局を~」に関しては、一度入ったら絶対に抜けられないわけではなく、父が倒れたので実家を継がなければならないなど、ちゃんとした理由があれば、容易に脱退することができたみたいです。
 ちなみに局中法度という言葉は、子母澤寛氏の『新撰組始末記』で登場し、広まっていったのですが、局中法度は、単に「禁令」と呼ばれていたようで、子母澤氏の脚色だと言われています。また、五箇条目の「私の闘争~」という条文も、現在のところ発見されておらず、脚色ではないかと指摘されています。

新撰組といえば、この羽織ですが・・・

 会津預かりとなった壬生浪士組は、お金がなかったため、会津の名前を使って、いろいろなところから借金をするようになりました。そのお金を使って何をしたのかというと、有名な隊服、隊旗を作ったのです。もちろん、全額を充てたわけではありませんが。
 新撰組のユニフォームといえば、浅葱色のだんだら模様です。皆さんが新撰組と聞いたら思い浮かべるだろう、例のあれです。なぜこのようなデザインになったのでしょうか。
 まず、浅葱色(水色)ですが、これは武士が切腹する際に着る、言わば死装束の色から取ったといわれています。武士ではない近藤や土方の武士への憧れや敬意、覚悟が現れています。次に、袖のだんだら模様(山形模様)は、江戸時代に流行っていた芝居『仮名手本忠臣蔵』で赤穂浪士が討ち入りの際に着用していた衣装を真似たといわれています。赤穂浪士のような主君への忠義に厚い立派な武士に憧れたのでしょう。(実際の赤穂浪士は、討ち入りの際、ほぼ黒ずくめだったようです。)この隊服は、現在の「大丸」に発注したそうです。
 隊旗の方は、赤地に白で「誠」、その下には、同じく白でだんだら模様を染め上げています。隊旗が出来上がると、隊士たちは喜んで、意味もなく振り回したりしていたそうです。隊旗は、現在の「三越」に発注したそうです。
 この新撰組のトレードマークとなっている隊服ですが、お金がなかったこともあり、低予算で製作したため、ペラッペラの安物であったことや市中を見回る際、目立ちすぎるといこともあり、新撰組がこの隊服を着用していた期間は、ごく僅かだったそうです。その後は、実際の赤穂浪士の討ち入りの時のような黒い羽織に黒い袴という姿になったそうです。ただ、この姿も日中は結構目立ったようで、新撰組に追われているとすぐにわかったなんて言われちゃったりしてます。

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種田流槍術免許皆伝という、槍の名手として知られる原田左之助。
煽り耐性の低い短気な性格で、「切腹の仕方もわからない下郎」と罵られ、実際に腹を切ってみせたことがあるそうです。
その際に出来た傷跡を隊士に見せびらかすという嫌な趣味も。
永倉新八と仲が良く、後に永倉と一緒に・・・
漫画『るろうに剣心』の登場人物、相楽左之助のモデルとしても有名。

 次回、芹沢鴨さんが大騒動を起こします。新撰組になるまで、あともう少しでございます。

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