/ Column

ファン対ファン。バンドファン内宗教戦争

文:田渕竜也

いやー怖い。怖いんですよ。

 何がって?「ファン」っていう集団がですよ。以前、当サイトでも取り上げたようにファンとは狂気的な存在である。だってあいつら「アーティスト」と呼ばれるバンドマンのメッセージを受け取って各々があの手この手で布教してくるし、ファンの間ではライブに謎のルールもうけるし、自分の身分は風俗やソープという奈落の底に落ちきってもきっちりとお布施はする。そして場合によっては他のバンドのファンと対立したり、なんだったら付き従うバンドのデカイ重要なライブが迫ると振り付けの合宿だってやったりする。
 ファンの狂気的な心酔は世間から白い目を向けられたらその分、さらにファンという連中は集団として団結し結束を強めていく。そしてさらにその集団の中では身分まで「しきり」など細かな階級までもがきっちりと設けられている。

 いや、もうこんなの完全に宗教ですから。昼間にインターホン押してくる子連れババアどもとか駅前で変な雑誌を配ってるやつらと同じですから。仮に付き従うバンドマンが政党候補になったら「一票よろしく」とか言ってきそうだな。もういっそのこと非課税にすることもできると思うよ。税金払わなく済むって羨ましい限りだっての。

 まぁ色々言ったけどここまではインディーズV系バンドのファンの場合といったところだ。だけどかねがね「ファン」というものは多かれ少なかれこんなイメージだ。やっぱり狂気的。怖い。

 狂気的なファンの行動の一例として敵対しているバンドのライブ潰しなんてよく話に聞いていた。有名なのはDir en greyとPierrotのファン同士の抗争だ。

 Dir en greyの『アクロの丘』とPierrotの『メギドの丘』という曲名から今日では「仁義なき二大V系”丘”戦争」とも言われ、当時の代々木公園はゴルゴダの丘の如くV系抗争の聖地にもなっていた。
 この抗争の話、別にこの二つのバンド同士が仲が悪かった訳ではない。むしろDir en greyのToshiyaはPierrotのローディをやっていたし、バンド同士の抗争があったわけでもない。ただ、勢いのあるバンド同士のファンが暴走して抗争へと発展していったというのがこの話の筋だろう。
 だけどいまではこの両バンドがツーマンライブしてファン同士の関係は良好的なものになっていると思う。両バンドファン同士の抗争なんてもう北朝鮮と韓国のように休戦状態だ。
 流石に三十後半から四十代のバンギャなんて腰にきそうだしヘドバンするだけで尿もれとか気になりそうだしね。ヨシキも言ってたけどヘドバンはマジでやめておいた方がいいよ。首は大事にしないとね。

まだ異教徒を叩くなら理解できなくはないだけど…

 古代ユダヤ教が出来立てホヤホヤのキリスト教と争ったように他のバンドを異教徒扱いしてファン同士が抗争するなら百万歩譲ってまだわかる。わからんけど、件のDir en greyとPierrotのファン同士の抗争はまぁ理解できないことはない。

 だけど人間の歴史というものは面白いもので集団が成熟していく過程で異教徒どもと戦うよりも自分の教義に近いもしくは同じ宗教の内部での抗争が血みどろの争いになってしまうことがほとんどだ。

 例えば十字軍の遠征なんて途中から何故かキリスト教徒がキリスト教徒を攻撃してわけわからんことになってしまって、結果としてカトリックの権力はドンドンと弱くなっていったんですよ。

 バンドのファンで言えば同じバンドのファン同士なのに「この人のこの曲のノリ方がおかしい」ということで対立するのと同じ構図だ。衰退して行ったカトリックと同じくV系界もファン内部の抗争によりV系界自体が衰退して行った印象が僕にはある。

何故だ?なぜ人というのは分かち合えないのだ。

 いや分かち合えてるはずの同士たちが何故かどうでもいい些細なことで抗争に発展する。キリスト教なんて「パンに酵母を入れるか否か」や「ヤハウェかイエスかどっちが偉い?」だけで血みどろの争いが起きているんだぜ。マジでどうでもいい。僕ならそんな味のないパンを食べるくらいなら卵かけご飯を食べますよ。どっちが偉いってどっちでもいいよ。

 「こまけぇことは気にすんな」って言ったところで本人たちにとっては至って真剣な話なので、いくら突っ込んでも無駄なのである。僕らの生活で言えば「なんで「いただきます」っていうの?」と聞かれるのと同じことなんですよ。

なぜ人はこんなにも争うことが好きなのか。

 お菓子好きのきのこたけのこ戦争然り、動物好きの猫派と犬派論争然り、男女の考え方についても然り、あいのりの感想などみんな本当にどうでもいいようなことでUHFの如しリング上でマウントポジションを奪いたがる。嫌ですよねこんなしょうもないことで争いになるなんて、みんな優しく妥協し合えればいいのにきのこたけのこも美味いし、犬も猫も可愛い。
 そう思えればみんな脳みそは花畑になれるはずだ。だけど生憎、人間ってやっぱり本当にどうでもいいことほど神経が過敏になって争いをやりたがるようになる。

 僕の知っているスナックではそこのオーナーがロックの定義だけで客と喧嘩していますから。やっぱりこう言った些細なことにこだわるところになにか人間臭さを感じる。

 些細なことで言えばV系のライブでよくある「潰し」というファンがファンを攻撃する行為がある。これもV系バンドという尊師の教義の解釈の違いで攻撃を受けてしまう。そのバンドのライブにそぐわないバンTや服装をきているだけで安全ピンで刺されたり、たぬきで晒されたりと攻撃される。いくら教義の違いとは言え、これ傷害罪になりますからね、民事不介入かもしれませんけど一応は被害届出せますからね。

初期ファンVS転換期ファンVS大衆期ファン

 転換期によるファンの入れ替えってバンド運営において重要になる。

 大体、デビュー作と2作目までは初期で3枚目あたりから転換していって五、六枚目ぐらいから大衆的になって往年のファンから酷評を受けていくのがよく見る道筋だ。

 ここで登場するのが初期の尖っていた頃のファンと転換期のファンと大衆化していった頃のファンの三つの関係が合間ってみつどもえ状態になっていくファン同士の煽り合いである。
 ある人は「おい、このどさんピンの売れてから群れてきたファンが!初期の二枚がサイコーじゃー」とか「何もわかってない!自分たちの方向性が見えてきた3枚目こそが名盤」って煽ったり「最近このバンド知ったけどかっこええ」ってツイッターに呟いたり。初期のファンも転換期のファンも新作を出すたびにグチグチと批判を漏らしていく。そして新参ファンを叩いてく。ファンのみつどもえ状態って本当に地獄絵図だ。

 記憶にあるのはLinkin’parkのファンたちだ。Linkin’parkはアルバム三作目辺りから方向性に変化が起こり、だんだんとニューメタルからエレクトロ寄りの音楽へとシフトを変えていったんだけど、このシフトチェンジが初期、転換期のファンたちは許さなかった。ボーカルのチェスター・ベニントンが最後に参加した『ワン・モア・ライト』は賛否両論で特に初期のファンたちから強い非難を浴びた。チェスターとしてはやっぱり親友で自殺してしまったクリス・コーネルへの曲もあったので、この批判が響いてチェスターは自殺したんじゃないかと僕個人的に思っている。『ワン・モア・ライト』を批判するファンたちに向かってブチキレるチェスターのYoutube動画もあったしね。

 やっぱりファンとは宗教とはいえバンドの方向性についていけなくなったらその宗教からさっさと卒業するべきだと思うんですよ。「大人になったらさっさと忘れなさい」ってガンダムの監督、富野由悠季も言ってたけどそれはあながち間違いではない。

 キッズだった頃の衝動をいつまでも感じたいのはわかるけど、バンドとしては時代に即した作品を作り出さなければならない。特にアメリカのヒットチャートなんて毎年のようにサウンドが入れ替わっている。今、はやっているダウンテンポのトラップサウンドも明日にはアップテンポでもっとイケイケなサウンドになっているかもしれない。
 だからいつまでも十数年前に流行った音楽性を求められても求めている人って正直、少数派なんですよ。ファンって広い音楽の世界で考えれば圧倒的に少数派なんですよ。だからファンって入れ替わっていくべきなのである。そしてさっさと忘れて新しいフィールドに出るべきなのだ。
 そうしたらチェスターは死ななかった。ファンの対立は時として教祖自身を死に追いやってしまうことがあるんじゃないかなと、僕個人としては思うのであります。

終わりに
 宗教もファンも奇妙なこだわりをめぐる壮絶な営みという点で良く似ている。ていうか一緒だよな。どちらも外野から覗くとなぜそんなことにこだわるのか不思議に思ってしまうんだけど、本人たちはマジに真剣なのである。わけのわからないプライドや、忠誠、組織のルールにマジのマジにこだわり抜き、世間からは狂人扱いされるからこそなお人間らしい。

 人間として普通に生きていて、絶望するような環境下であってもアーティストという一筋の光があるからこそ生きていける。さらにはファンというコミュニティーもある。だけどコミュニティー内ではこだわりの部分について解釈が枝分かれしていき、対立が生まれてくる。

そうした彼らの人間臭い生活は、時として尊師として立つバンドマンを戦慄させることもある。いやー恐ろしいですね。

それではまた。

田渕竜也のTwitter

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