第4回もう一度まなぶ日本近代史特別編~局長大暴れ~
会津預かりとなった壬生浪士組は、殿内義雄、家里次郎を始末し、近藤勇と芹沢鴨が主導権を握ります。新たな隊士も集め、本格的に仕事に取り掛かることになりました。
大坂力士乱闘事件
京都の壬生を拠点にしていた壬生浪士組でしたが、大坂町奉行から大坂に潜伏している不逞浪士の取り締まりを依頼されます。京都の取り締まりが厳しくなったこともあり、大坂に身を潜めた反幕府分子も少なくなかったようです。そこで、壬生浪士組は大坂に出張するのです。
文久3年(1863年)6月、大坂での任務を終えた壬生浪士組の芹沢鴨、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、平山五郎、野口健司、島田魁は、大川で舟を浮かべ、食事やお酒を楽しんでいました。そんな時に、斎藤一が腹痛を起こしてしまい、堂島川鍋島河岸で舟を降り、休憩のために北新地へと向かうことにしました。事件は、北新地の入り口にある「蜆橋」で起こってしまうのです。
芹沢たちが橋を渡ろうとしたとき、反対側から力士たちも歩いてきました。芹沢は、会津預かりの「武士」である我々に当然、道を譲るだろうと思っていました。ところが、当時のお金のないみすぼらしい芹沢たちの姿を見た力士は、ナメてかかったのか、道を譲ろうとはしません。そこで道を譲る譲らないの口論が展開されます。怒った芹沢は、力士をフルボッコにしてしまったのです。
芹沢たちは、そのまま北新地に向かい、「住吉楼」で斎藤の介抱をおこないました。しばらくすると、斎藤も回復し、酒宴の続きを始めました。すると突然、先ほどフルボッコにした力士が数十人の仲間を引き連れて、お礼参りにやってきたのです。天秤棒を持ち、住吉楼を取り囲む力士たちに芹沢たちは、脇差しか持っていなかったものの、応戦することになります。数では不利だった芹沢たちでしたが、そこは後にその名を天下に轟かせることになる人たちです。沖田や平山が殴られて負傷するも、力士側の被害は、死者5名、負傷者数十名という返り討ちです。力士たちは、引き上げていき、一旦騒ぎは収まります。
近藤さんの名案
事件の知らせを受けた近藤勇は、早速「無礼討ち」として、大坂町奉行所に届け出ます。一方、力士側も芹沢らの狼藉を訴えましたが、相手が会津預かりだと知ると、自らの非を認め、壬生浪士組へ賠償金を支払うことになります。近藤は、力士たちと禍根を残さないように和解のための酒宴を設けます。そこで、大坂相撲と京相撲の合同での相撲興行を提案します。また、その際は祇園だけでなく、壬生にも来て欲しいと頼み、会場警備などの手伝いを壬生浪士組で行うと約束しました。
相撲興行は、約束どおり行われ、力士側から壬生での収益は壬生浪士組の取り分にして欲しいと言われていたため、隊士たちは一生懸命広報活動を行ったそうです。壬生での興行の後、永倉らが近くで獲ってきた魚を力士たちに振舞うなどして、事件後は近藤の目論見どおり、力士たちときっちり和解し、友好関係を保っていきました。しかし、壬生での興行が行われた日、芹沢がまた問題を起こしてしまうのです。
大和屋焼討事件
壬生で相撲興行が行われた日の夜、芹沢は京都の生糸問屋である大和屋に資金提供を迫っています。大和屋は、尊攘派に資金提供を行っているとの噂があり、芹沢は「水戸出身の尊攘派である俺にも、もちろん資金提供してくれるよね?」と言い寄ったのです。しかし、大和屋はこれを拒絶します。怒った芹沢は、蔵を破壊し、さらに放火してしまいます。火消しが近づけないように抜刀して周りを囲み、哀れ大和屋は全焼してしまいます。
芹沢がこのようなことを行った理由については諸説あります。近藤たちが武士でありながら相撲興行を手伝うという商人のような真似をしたことが気に入らず、武士はこのように集金するのだということを示したかったという説や当時の壬生浪士組にはお金がなく、力士たちに充分なもてなしをしたかったためという説なんかもあります。また、焼討までしたことについては、大和屋がなかなかの悪徳業者だったなんていう説があったりします。ただ、実際のところはよくわかりません。
後に新撰組四番組組長・柔術師範を務める松原忠司。
八月十八日の政変で出動した際、大柄で坊主頭に長刀という大変目立つ格好をしていたため、「今弁慶」とあだ名されました。
また、壬生では「親切者は山南と松原」と言われており、血の気の多い集団の中で温厚な人柄として知られています。
その最期は謎が多く、隊内の記録では病死とされているものの、創作ではドラマチックな『壬生心中』として描かれることが多いような気がします。
次回は、いよいよ新撰組の名を頂戴することになります。しかし、これまで盛り上げてくれた芹沢さんとの別れも・・・