/ Column

ジョン・フルシアンテと自称メンヘラたち

文:田渕竜也

病みを抱えると自称する人たち。そして僕の学生時代の記憶

 カオスワールド広がるインターネットの世界では可哀想な自分、傷ついた自分、不幸な自分、不安定な自分を演出する人々のことをよく「メンヘラ」と呼ぶ。ご存知のことだろうと思うが、この言葉は「メンタルヘルス」の略語のことで心に病を抱えた人のことを意味する言葉である。

 個人的な感情として、このインターネッツという混沌とした自己演出というカオスの中で不安定な自分を演出する人たちには何か面白みというかなんというかそんなものを感じたりする次第であります。ことに場末の地下アイドルや「邦楽ロック好きと繋がりたい」みたいなハッシュタグをつけてる人たちの世界ではそのえこひいきがさらに激しくなる。ピアスの穴の数がまた増えましたとあげる自撮り、新しくタトゥーを入れましたという謎の報告、酒好きアピールからのアル中アピール、そしてテイクアメディスン。

 「私はこの世界で弱きもの、ゆえにウサギさん…」と言わんかばかりにこの非情なる世の中に「自分がこんなにも弱いですよ」とアピールする。アピールとまでいかなくともその弱さゆえに、あるいは自分が生きた証を綴ろうとした人生の陰影が見て取れる。

 僕の知っている今までそういういわゆるメンヘラと呼ばれる人たちの中で一番可笑しかったことは、学生時代の同級生だ。その人とはクラスの席が前後でお互いV系バンドやハードコアとかミクスチャー音楽が好きでよく話すようになった。ちなみにその人は初期のTHE MAD CAPSULE MARKETSが好きで、そのあとなぜかガゼットやナイトメアが好きになったそうです。メンヘラ特有のピアスアピールはもちろん謎のカプセル錠アピールはもはやテンプレートであるけれど、この人がそのへんのメンヘラとは違ったのは”生肉しか食べられない”という特異な謎の設定があった。

 ある時、友人数人で焼肉を食べに行くことになったときのこと、その人は牛肉だろうが鶏肉だろうが豚肉だろうが生肉で食べていた。ユッケとか生レバーとかそんな生ぬるいものじゃないんですよ。正真正銘の生肉だ。完全にショッピングモールに入ってきたゾンビのそれだよ。そのとき僕は「あぁ、キャラを守るって大変だなぁ。氏神一番さんもこのぐらいの度胸とキャラ設定を守ることができればもっと売れたのに」と思いました。その思いと同時に頭によぎったのは「メンヘラって元気だなぁ」でした。

 だって普通、精神がやられている人ってこんなエモーショナルかつエキセントリックな行動は取らないと思うんですよ。本当に病んでいたらもっとなんていうか病院食のような薄味な感じになると思うんですよ。何も行動を起こす気力がないというか。

 昔、テレビで見た安西ひろこさんのパニック障害になったときの再現映像なんて本当に何もできないような状態だった。何もできないというのはご飯を食べる、何かを考える、トイレにいくなど動くということなど人間としての行動すべてである。

 多分、僕の学生時代の同級生はエヴァのパイロットみたいなこの世界に何か自分に設定や使命が欲しかったんだろうと思います。自分には何もないから何かしようとした結果なのでしょう。それがあらぬ方向へボールが飛んで行っただけのこと。今にして思えば生肉を食べるパフォーマンスはそんな単純な動機だったと思う。もっとも今ではこの人が生きているのか死んでいるのかもわかりません。今では立派な大人になっているでしょうか?ただただ傍観していた僕は… 。まぁこの話はこのぐらいにしておきましょう。

 つまりは何が言いたいかって巷で言うメンヘラは元気だって言う話なわけです。でなければ辛いという気持ちをリストカットした腕をSNSでアップしたり、飲んでる薬をわざわざご丁寧に公表したり、変なポエムは書かないと思うんですよね。元気と言わなくてもその行動力がエネルギッシュだなと。別にその行動力自体はイイと思うんだけどね。

天才ミュージシャン ジョン・フルシアンテ

 ことにとある天才的なミュージシャンがいる。もう”元”ってつけるのもなんだかなぁなんだけど元RED HOT CHILI PEPPERSのギタリストのジョン・フルシアンテである。なぜ急に彼のことを取り上げるかというと彼の作る音楽には元気がないのである。エネルギーもないし、音楽を聞き始めると、暗いし、ギターの音も波乱万丈な人生を歩んできたスナックのママのしゃがれた声みたいに乾ききっている。元レッチリということでいつものハイテンションを期待して聞いた人はとんだ左フックだっただろう。それも無理はない。
 だけど彼には天才的な哀愁の帯びたメロディーラインがある。ミックスも流行りの分厚い音圧もないいたってシンプルなんだけど音楽はこれでいい。思うに音楽の良し悪しは最終的にはメロディーの良さだと思うんですよ。オシャレなPV、難解な歌詞、ラップ、図太いバスドラなんかもういい。もういい加減にしろ。
だからこの流行りの匂いが一切ない。乾いたギターと憂いのあるボーカルのメロディーラインが柱となって、彼の作り出す音楽の“良さ”に繋がっていく。

John Frusciante – Central

 このジョン・フルシアンテの無理のない元気のなさ、無気力さ。あるけどたまに無理して出している感じはまるでモハメド・アリと戦うパンチ力もディフェンス力もないのに何度も何度も倒れては起き上がるチャック・ウェブナーのようだ。何度も音楽に向き合っては元気をなくすけどそれでも好きな音楽を辞めきれない。そんな感じ。

John Frusciante – The Past Recedes

 ジョンフルシアンテは無気力ながらも頑張ってチャック・ウェブナーのようにフラフラになりながらも音楽を作っている。そりゃ、レッチリにいた方が生活の安泰もあるだろうがいまの彼の音楽を聞くと多分それどころではなかっただろうと思う。そう彼はメンヘラではなく紛れもなく鬱なのだ。

 鬱だからって「世の中辛いよな。憎い。この世界中、皆殺しだ」っていうような未成年の主張のようなものも一切ない。ジョン・フルシアンテはそんなくだらないことを主張する気力もゼロなのである。とにかく自分がやりたいものしかやらない。できることしかやらない。

やかましい拡声器

 最近の邦楽ロック周辺ではまるでメンヘラというキーワードをアクセサリーのように着飾った歌詞のバンドがたくさんいる。正直な感想をいうと、やかましい。歌詞が暗い、ネガティブ、メンヘラくさいなんてただの自称メンヘラだ。メンヘラ的キーワードを抽出してファンションの一部にしているだけだ。やっていることドラッグの製造と同じ。その抽出したファッション要素というドラッグに感化されたメンヘラたちはまた日に日に量産されていく。
 まず言っておくが君達は元気なのだ。もちろん全員が全員という話な訳ではないけど、自分たちの不平不満をSNSで爆発できるほどエネルギッシュなのだ。そんなこと普通の人でも鬱病の人もできない。メンヘラと鬱病は似ているようで違う。だからもうそんな「病んでます」みたいな決まり文句を放つやかましいメンヘラ拡声器をそろそろ下げたらと僕個人としては思うのであります。
 
 まぁ多分どこかでこの記事もやかましい拡声器と思う人もいるでしょう。

 そんなことを、学生時代の夢でうなされて起きた寝床で思いました。そして頭痛で朦朧とする中、とりあえずジョン・フルシアンテの音楽を聴きながら豆乳を一杯飲みました。

 それではまた次回。

田渕竜也のTwitter

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